内田康夫 後鳥羽伝説殺人事件 目 次 プロローグ 第一章 三次駅殺人事件 第二章 心の旅路 第三章 消えた本 第四章 暗 転 第五章 名探偵登場 第六章 第二の男 第七章 襲 撃 第八章 檻《わ》 穽《な》 エピローグ  プロローグ     1 「あら……」  美也子はつい、小さく叫んでしまった。 (この本、どこかで見たことがある——)  その書棚には古い学術書や専門書ばかりが集められていて、店に入ってきた時から多少の期待感は抱いていたのだけれど、こんなに胸のときめく出会いになるとは思ってもみなかった。  旅先ではずいぶん沢山の書店を覗《のぞ》いたが、地方の書店は全部と言っていいほど新刊書専門で、たまに古書買入の看板を掲げているような店があっても、並べられているのはせいぜい文学の全集物がいいところだ。東京の神田《かんだ》あたりに軒を連ねる古書専門店とは無論、較べようがないにしても、地元に関する歴史書の類《たぐ》いならあるかもしれないと思っていただけに、美也子の失望も大きかった。  それが、旅の終わりになって、心に想い描いていたのとピッタリの書物がみつかった。それどころか、金箔《きんぱく》があらかた剥《は》げ落ちてしまって、黒ずんだ痕跡《こんせき》のようになった背文字にも、なぜか心の琴線にビンビンとひびいてくる懐かしさを覚えるのだ。 『芸備地方風土記の研究』と書かれた背文字を胸の裡《うち》で読んでみると、失われた記憶の断章が、甘酸っぱい青春の香りに包まれて、いまにも甦《よみがえ》ってきそうな気がする。  美也子は、精一杯、腕を伸ばして、書棚から本を引き抜いた。 (ああ、この手ざわり——)  くすんだグリーンの布表紙《クロスカバー》の質感と、どっしり手ごたえのある重量感。心の記憶は信用できないというのなら、皮膚感覚に刻み込まれたこの記憶は本物だわ——と、美也子はワクワクする昂奮《こうふん》で、かえって全身から血の気が引いてゆくような想いであった。 (それにしても、なぜかしら。なぜ、こんなにも心が揺り動かされる�記憶�をこの本に感じるのかしら——)  つとめて冷静に立ち返って、美也子は表紙を開いた。目次のひとつひとつに言い知れぬ懐かしさが湧《わ》いてくる。そして——、目次に『後鳥羽法皇伝説』とあるのを発見した瞬間、ふいに美也子は頭痛に襲われた。眠っていた記憶の殻が壊れ、�過去�がひとつ甦る時は決まってこうなるのだ。  ゆっくりと気息が整うのを待ってから、今度は裏表紙を開いてみた。そこに現われたさらに衝撃的な�事実�に対して、しかし美也子は今度は心の準備ができていた。  裏表紙には四角い大型の朱印で『正法寺家蔵書』と捺《お》されてあった。 「あの……」  美也子は、書棚の谷の底から眼鏡越しにジロジロと疑わしい視線を投げつづけている店番の老人に向き直った。 「なぜ、この本が、ここに?……」 「なぜいうて……、売るためですがの」 「いえ、そうじゃなくて、どうして……、どこから、ここへ来たのかです」 「そりゃ、あんた、わしが仕入れてきよりましたがの」 「どこから……」 「どこからって、言えませんがな」 「なぜですの」 「なぜかて、仕入れ先言うてしもうたら、元値が知れますやないか」 「あ、ごめんなさい、そういうことじゃないんです。あの、このご本はいただきますから、お幾らでしょうか」  老人は奥付の上に書き込んである数字を確かめた。 「八千二百円じゃけど、八千円にしときます」  美也子が一万円札を出すと、へえ——という顔になった。 「お客さん、歴史に興味ありんさるの?」 「ええ、ですから、このご本持っていらした方に、いろいろお訊《き》きしたいのです。教えていただけません?」 「そりゃ、お教えせんこともないが、けど、本の値段のことは言わんでくださいよ」 「そんな失礼なこと、しません」  美也子がムッとした顔をつくると、老人は照れたような笑いを浮かべながら、『芸備地方風土記の研究』を包装紙代わりの紙袋に詰めた。袋には不粋な大きさで『尾道《おのみち》譚海堂』と印刷されていた。     2  富永が乗り込むのを待っていたようにドアが閉まり、電車は動きだした。車内は空《す》いていて、ドア付近のベンチシートも、奥の方のボックスシートも、客の数より空席の方が多い。富永はベンチシートの端にアタッシェケースを置き腰を下ろした。  窓という窓は開け放たれていて、駅構内を出外れると、涼風と一緒に蝉《せみ》の声がとびこんできた。  広島県の福山と三次《みよし》を結ぶ「福塩《ふくえん》線」は典型的なローカル支線である。八六・五キロの距離を三時間かけてノンビリ走る。新幹線でやってきてこれに乗り換えると、そのあまりの鈍行ぶりにうんざりさせられる。唯一、救いといえば、窓外を流れる景色ということになるが、これとても福山から府中まではレール沿いにダラダラと市街地が続き、目を娯《たの》しませてくれる風景とはお世辞にも言えない。府中を過ぎて中国山脈の山裾《やますそ》に入ってゆくにつれ、山あり谷あり、緑濃い景勝地になるのだそうだが、富永はいまだかつて、その路線を走ったことがない。過去数回の出張はすべて府中止まりであった。  広島県府中市は人口五万余の小都市だが、ここには一部上場企業が二社あり、しかもそのうちのひとつR—社は、世界最大のダイカストメーカーとして知られている。また、全国有数の家具の生産地でもある。街は活気にあふれ、人びとは忙しげである。要するに昔から勤勉な土地柄なのだ。そして気候と水利に恵まれ、軽工業の育つ素地があったということなのだろう。  大阪のIC機器メーカー�D—社�がそこに目を着けた。中国地方から西への戦略拠点としてこの地に工場を設けようという目的の中には、R—社の優秀なダイカスト部品を内製に準じるような身近さで供給してもらえる、という思惑もあった。  富永はD—社のいわば先乗りとして、土地の入手やら地元機関との提携やらの下工作に関わっている。必然、出張の回数は増えるし、一回の滞在日数も長くなる。仕事そのものは確かに気苦労の多いものだが、出張ということに関しては富永はいっこう、苦にならない。女房子供が気にかかる歳でもないし、なにより、旅は富永の旺盛《おうせい》な好奇心を満足させてくれる。会社の連中に言わせれば「見たがり、出たがり、知りたがり」ということになるが、そういう富永の性格は、今回のようなコーディネーター役にうってつけだった。  その富永の目の前に、好奇心の対象とするに足るものが|あった《ヽヽヽ》。向かい合わせの座席《シート》に座っている女である。  年齢は二十八、九歳か、ピンクのテニス帽を被り、細いブルーのストライプが入ったトレーナー、ベージュのキュロットスカートという格好は、ごく気軽な独り旅を想像させる。傍《かたわら》には大ぶりなボストンバッグが、優に二人ぶんの座席を占領していた。  醜女《しこめ》、なのである。そのことが富永の眼を惹《ひ》いた。それほどに——ということだ。丸く突き出た額。その下に小さく埋め込まれたような目。低い鼻と、その両脇《りようわき》をガードするような盛りあがった頬《ほお》。受け口。どれひとつを取っても、なかなか見飽きるということはない。それらのすべてが、ひどい不調和な状態で迫ってくる有様《ありさま》は、圧巻でさえあった。  その�醜女�が、似つかわしくない、妙にうっとりした表情で天井のあたりに視点を置いている。何か、遠いことに想いを馳《は》せているといった風情だ。その内に、バッグのファスナーを開けて大切《だいじ》そうに紙袋を取り出した。『尾道譚海堂』と大きく印刷されている。袋の中身は緑色の表紙の分厚い本であった。よほど古い本なのか、金文字はほとんど剥げ落ちてしまって、富永の位置からでは判読できない。  女は、聖書でも見るように、ますます恭《うやうや》しい態度になって、本をひろげた。どのページを読むという目的があるわけではなく、ただなんとなくその本を繙《ひもと》いた、という印象であった。その証拠に、何枚かページを繰っただけで、読むでもなく、女は本を閉じ、紙袋に入れて、元のようにバッグの中へ蔵《しま》った。  ところが、それからものの五分も経たないうちに、女はまたぞろ本を引っ張り出して先刻と同じように、無意味な動作を繰り返したのだ。今度の場合も読むという目的はなく、ただ単に本の布表紙《クロスカバー》の感触を愉しむ、といった感じが見えた。いかにも、何やらいわくありげなのである。  富永はかなりの時間、女の動作を眺めつづけていたことになるのだが、女は結局、その無遠慮な視線に気付かずじまいであった。  富永の目的地である府中には一二時四〇分に到着した。この電車は府中止まりで、残り少なくなっていた乗客たちは、のんびりとした様子でプラットホームに降りてゆく。跨線橋《こせんきよう》の階段を上《のぼ》りかけて、富永は振り返り、例の女を見た。女はさらに次の列車を乗り継いで行くらしく、ホームの真ん中あたりにポツンと佇《たたず》んでいた。  第一章 三次駅殺人事件     1  一六時二二分発、芸備線広島行列車は少ない客を乗せて、三次駅を出発して行った。  駅員の新祖《しんそ》は列車が構内を出外れるのを指呼確認してから、売店のおばさんに声をかけた。 「どないね、景気は」 「あかん、さっぱりじゃ」  ニベもない答えが返ってきた。 「今年《ことし》はまたお客さん、減ったんと違うんかいの。国鉄さんもしっかり頑張ってくれな、困るわの」 「まあこれからやで、夏休みも始まったばかりじゃけん。お盆が近づけば鵜飼《うかい》のお客さんもどっと増えるし、なんぼかようなるんと違うかの」  ならええけど、とおばさんはいつこうに気が乗らない風である。新祖は帽子を取って脳天に風を入れながら、プラットホームを歩いて行った。屋根のある部分はいいが、ホームのはずれや線路からは陽炎《かげろう》がめらめらと燃えあがる。四時半を過ぎても、涼風が立つどころではなかった。  時計を見て、跨線橋の階段を上《のぼ》る。次の列車の入線まではまだ少し間があった。跨線橋の上で風に吹かれるのは悪くない。  跨線橋の真ん中に女が蹲《うずくま》っていた。貧血でも起こしたのだろうか、なにしろこの暑さだ、おとといも一人、列車の中で貧血で倒れ、救急車で運ばれた女がいた。 「もしもし、大丈夫ですか」  女は大きなバッグに寄りかかるようにしたまま、動かない。全身の力が完全に虚脱した姿勢だ。 「もしもし、もしもし」  新祖は女の肩を揺すった。半分脱げかけていたテニス帽が床に落ち、髪の毛がはらりと散った。 (気絶している——)と新祖は思った。 「もしもし、もしもし」  顎《あご》に手をかけて顔を起こした。  ガクンと頭が後ろへ倒れ、白く剥《む》かれた眼がこっちを睨《にら》んだ。歪《ゆが》んだ口から、涎《よだれ》が流れ出て、糸を引いた。 (死んでる——)  新祖は反射的に飛びすさった。女の躯《からだ》は支えを失って、ごろんと床に転がった。  新祖の急報で、駅長以下が跨線橋に集まった。応急処置の心得のある者が女の様子を診《み》たが、すぐ諦《あきら》めて首を振った。体温はまだ残っているようだが、脈が完全に停止し、瞳孔《どうこう》は反応しない。 「とにかく、ここに置いとくわけにはいかんで」  駅長は担架を持ってくるよう指示した。一六時四三分には三次止まりの列車が入ってくるのだ。死体をひとまず宿直室に運ぶ一方、一一九番に電話した。救急車が到着した時にはすでにその列車の客が改札口辺りにさしかかっていた。「何ぞあったんか」と駅員に訊く者もいた。客は顔馴染《かおなじ》みが多い。「この暑さじゃけ、急病じゃろ」と駅員は答えた。事実、ほとんどの者がそう思ったのだった。 「こういう暑い日にかぎって、なんぞドデカイ事件が起こるんじゃ」と言ったのは、係長の森川警部補である。 (いやなことを言う——)と野上は思った。智子の顔がチラッと脳裡《のうり》をかすめた。「今日だけは早く帰ってください」と言っていた。里の両親が一昨日《おととい》から遊びにきていて、明日《あす》帰ることになっている。一度くらい夕食を伴にしてくれてもいいじゃないの、という妻の言い分はもっともなことだ。智子の父親というのは、県下の大学で植物病理学を教えている教授で、およそ面白味に欠ける人物だが、その分、母親の方がごく現代《いま》風の女だ。ボウリングなど、結構、二〇〇アップなんてこともやらかすらしい。警察官との結婚に反対しつづける父親を強引に説得したのも母親だと聞かされている。その時の言い草がふるっていて、「お巡りさんなら、女遊びなんかしないでしょう」というのだそうだ。 「そんなこと、分からないわよねえ」と、口では言いながら、智子は探るような目付きで野上の眸《め》の中を覗いていた。 (なるほど、そういうものか——)と、その時妙に感心したことを、野上はよく憶えている。警察官は悪い事をしない、という大前提を市民は持っている。当然といえば当然だが、これはしかし、重要なことだ。そういう信頼関係があってはじめて、社会の秩序は成立する。政治の腐敗というようなことが言われていながら、日本という国が他国に較べてどうにか安定した繁栄を保っていられるのも、司法の最前線ともいうべき警察および警察官の資質に国民が信頼と期待を寄せているからにほかならない。考えてみれば、荷の重い仕事だ。警察官といえども人間であるいじょう、人並な欲望はあるし、時には邪心の生じることもないわけではない。早い話、若い警官の中にはいかがわしい店へ出掛ける者だって少なくないのだ。上司も知っていて、或《あ》る程度黙認しているフシがある。一方で厳重取り締まりを建前としていることからすれば、あきらかな矛盾だけれど、その微妙なところで秩序が保たれているというのも、究極的には個個の警察官の資質の良さを物語っていることになるのだろう。  もっとも、市民の信頼に応えるということと、妻の信頼を裏切るということは表裏一体のような宿命があって、勤勉な警察官であればあるほど、家庭サービスとは縁遠い存在とならざるをえない。ことに、刑事課の、それも捜査係——いわゆる刑事《デカ》の日常には�予定�などといったものはないと心得るべきだ。  しかし、今度ばかりは、なろうことなら妻の希望どおり早く帰宅して、食卓に顔を連ねたい、と野上は考えていた。結婚して六年になるが、その間、ただの一度だって妻の両親とそういう付き合い方をしたことがない。智子の方も、理解があるのか諦《あきら》めているのか、あまり不平めいたことは言わないが、内心では寂しい想いをしていたのだろう。昨夜《ゆうべ》遅く帰って、「明日はみんなで、すき焼でもつっつくか」と言ったら、「ほんと?」と、輝かんばかりの嬉《うれ》しそうな顔になった。  午後四時をとうに回って、本日はいまのところ事件らしい事件は起きていない。このまま平穏無事に日が暮れそうな気配であった。警察というものは事件があってはじめて成り立つ�商売�だが、事件なんてものは無いに越したことはない。森川警部補の�不吉な�予言も、その願望の裏返しといったニュアンスであったのだろう。  だが、運命とは皮肉なもので、森川の予言が発せられた丁度その頃《ころ》、一階にある一一〇番専用電話に重大事件の発端となる通報が入ってきたのである。  通報者は三次消防署の救急隊員だった。 「いま三次駅で女性の変死がありました。収容する前に、一応、検視をしていただこうと思います」  電話を受けたのは警務課の巡査であった。一一〇番の受け専用電話は一階フロアの中央にあって、特定のオペレーターがいるわけでなく、近くに居合わせた者が受話器を把《と》ることになっている。 「病死ですか」 「たぶんそうじゃろ、思いますが、一応、長谷川先生にも来てもらった方がいいでしょう」  長谷川というのは警察医で、三次署の裏手に医院を開業している。 「事件か」  一階フロアの正面に陣取る、次長の佐香警部が声をかけた。巡査がメモを見ながら報告すると、 「病死かな、今日はばかに暑かったから」 「救急隊の方もそう言っております」 「じゃあ、三、四人で行けばいいかな」  佐香は庁内電話を使って刑事課長の落合に連絡した。刑事課は二階にある。一階に較べると天井が低く、屋根に直射する太陽熱の影響を受けやすいから、風のない日はたまったものではない。肥満体の落合はじっとしているだけで全身に汗が滲《にじ》んでくる。汗でべとつく掌《て》から受話器を取り落としそうになった。 「森川《モリ》さん、駅で変死だ、病死らしいが、一応、頼むわ」  ほいきた、と森川は威勢よくた)ち上がった。瞬間、野上は時計に目を走らせた。五時五分過ぎ、きわどいところで捕まった、これで智子との約束もおじゃんか——と思った。 「野上《ガミ》さんも行くかい?」  森川はどうでもいいような口吻《くちぶり》だが、知らん顔をするわけにはいかない。 「行きますよ」  野上につられて、在席の者はバタバタと起ちあがった。結局捜査係と鑑識、合わせて七名が二台のパトカーで出発した。駅まではものの二分とかからない。自転車で行った長谷川医師が玄関口のところで待っていた。  三次駅は市街地の南のはずれに位置している。したがって駅には南側の乗車口はなく、出改札業務や荷扱いなどはすべて北側にある本屋《ほんおく》内で行なわれる。  改札口を入ったところが一番線ホームになっていて、左へ少し行くと跨線橋の階段がある。二、三番線ホームへはこの跨線橋を渡って行くことになる。 「死体があったのはあの上です」  案内役の新祖が跨線橋を指した。 「じゃあ、野上《ガミ》さん、そっちの方を見てくれや、俺《おれ》は医師《せんせい》とホトケさんの方へ行くけん」  森川は長谷川医師を連れて宿直室へ向かった。野上は二名の部下を連れて跨線橋の階段を登った。西陽が射しているから跨線橋の中は相変わらず熱い。 「ここです」  新祖が通路の一個所を示した。 「なんじゃ、何の痕跡も残っとらんで」  鑑識の巡査が床の上を見下ろして言った。 「あれから列車が二本入りましたけん」 「何人ぐらいの客が通ったんかいの」 「二本とも三次止まりでしたけん、合わせて七、八十人ちゅうところですかの」 「それじゃ、お手上げやな」  鑑識は言葉どおりに万歳をしてみせた。 「発見した時間は?」  野上が手帳を出して訊いた。 「一六時三五分頃じゃ思います。二番線のホームで時計を見て、三三分だからまだ列車が着くまで間がある思いながら階段を上がったのです」  新祖は女を発見した状況を説明した。 「すると、他には誰《だれ》もいなかったですか」 「ええ」 「あんたが見た時には、女の人はすでに死んどったわけですな」 「そうです」 「なぜ、死んどるということが分かりました」 「そりゃ、分かりますよ」 「脈をさわったですか」 「いや」 「呼吸を確かめた?」 「いえ」 「それでは、どうして分かったのですかな」 「そう言われると困るけど、しかし、死んどるということは分かりましたよ。ちょっとさわったらごろんと倒れましたし、それに……」 「ちょっと待った、すると、女の人を倒したのはあんたということになりますね」 「そういうことになりますか、しかしそういう言い方をすると、なんや僕が殺したみたいですね」  新祖は苦笑したが野上は真顔で言った。 「いや、もし女の人が殺されたのであれば、真先に疑われるのは第一発見者であるあんたですからな」 「冗談じゃない、なんで僕が疑われなければいけんのですか」 「いや、それが捜査の公式だということですよ。だから、充分注意して正確に話を聴かせてください」 「分かりましたよ」  いやな刑事だ、と新祖は不快であった。他の捜査員はニヤニヤ笑っている。野上部長刑事のしつこさは知らぬ者がいない。被疑者はもちろん、ただの参考人に対してさえ、野上はチクチクした事情聴取をやる。どうでもいいような事に拘泥《こだわ》って、根掘り葉掘り訊かれるから、大抵の者は最後に慍《いか》り出す。昂奮すると人間、思いもかけぬことを口走るものである。そこから何か端緒を掴《つか》むということもないわけではないが、実をいうと、野上の場合は一種の性癖のようなもので、ちゃんとした目的意識があるのかどうか、疑わしいという見方もあった。  階段をドタドタ踏み鳴らして、森川警部補がやってきた。 「おい、野上《ガミ》さん、殺しじゃ殺しじゃ、首に絞められた痕《あと》があったで」  野上はジロリ、新祖の顔を見た。  駅長事務室を借りて、新祖に対する本格的な事情聴取が始まった。尋問は森川が行なった。しかし新祖の証言に不審な点はない。 「すると、あんた以外に最後に彼女と会《お》うた人物が怪しいということになるが、あんたの前にあの跨線橋を渡った者は誰かね」 「それは列車の乗客でしょう、あの時は一六時二二分発の列車が出るところでしたけん、二、三十人のお客さんが乗りました」 「その中に挙動不審な者はいなかったかね。たとえば最後の方で、走ってきて飛び乗ったような者とか」 「そうですねえ……」  新祖は鹿爪《しかつめ》らしい様子で考え込んだ。当時のプラットホームの情景を思い浮かべる。  一六時台前半の二、三番線ホームの列車発着状況は次のとおりである。  まず一六時〇九分に芸備線広島行普通列車が二番線に到着する。ついで一六時一一分、福塩線の折り返し府中行普通列車が三番線より発車。そして一六時二二分に芸備線広島行が発車する。  発車時刻の十五分前頃になると改札口を開き、待合室の客をホームに入れる。乗客のほとんどはこの時いっせいに改札口からホームへと向かうのがふつうで、都会駅のようにサミダレ式にポツンポツンと改札口を通る客はめったにない。  一六時一五分頃までは、したがって、かなりの数の乗降客が跨線橋を渡って往来していることになり、もしそこに女性が倒れていれば誰かが助け起こすなり、駅員に報《し》らせるなりしていただろう。それがなかったということは、つまり女性の死亡時刻がその時間帯以降であることを意味する。そして、もし駅員の新祖が|犯人でない《ヽヽヽヽヽ》とすれば、一六時二二分発の広島行列車の最後の乗客が最も怪しいということになる。  ところで、この日にかぎったことでなく、三次駅のようなローカル駅では、発車まぎわに駆け込んでくるような客は珍《めずら》しい。だがこの日は広島行列車の発車寸前に跨線橋を駆け降りてきて列車に飛び乗った客がひとりいたのである。  閑散としたホームに、ドタドタと階段を踏み鳴らして降りてきて、あたふたと列車に飛び乗れば、いやでも印象に残る。 「あの男かな……」  新祖は呟《つぶや》いた。 「広島行列車の発車まぎわに、青いTシャツ姿の男が階段を駆け降りてきて、飛び乗りしよりましたが、挙動不審と言えるかどうかは別として、とにかく目立ったのはその人ぐらいなものです」 「それじゃろ」  森川は断定的に言った。 「それが最後の客なんじゃろ?」 「そうです」 「その列車は、いまどの辺りを走っているのかね」 「そうですね……」  時計は一七時五五分になろうとしていた。 「広島に一八時二〇分着ですけん、そろそろ玖村《くむら》付近でしょうか」 「なんや、あと二十五分で終点かい」  森川は周章《あわ》てた。野上は急いで署に電話して、広島方面の各署に手配するよう頼んだ。間に合うかどうかきわどいところだったが、広島のひとつ手前、矢賀から乗り込んだ警察官が目的の男を発見し、広島発の次の列車で三次へ護送してくることになった。  野上は駅から自宅へ電話をかけた。「今日は遅くなる」と言うと、智子はあまり驚いた風もなく「やっぱりね」と言った。 「すまんな、親父さんたちによろしく言ってくれや」 「いいわ、半分アテにしていなかったから」  野上は二の句がつげず、電話を切った。  容疑者は九時少し過ぎになって、ようやく三次署に到着した。三次駅で面通《めんとお》しをしたところ、新祖は「この人です」と証言した。もっとも、そのことは広島駅で連行する際、本人に確認済みで、本人も一六時二二分発の列車に最後に飛び乗った事実を認めている。  尋問には野上が当たった。  男は広島市内在住の北村義夫といい、年齢は三十三、自由業、だという。 「自由業というと、具体的にはどういう仕事ですか」 「いろいろですわ、土方もやるし、頼まれれば運転手もやるし、不動産業みたいなこともやるし、まあ、泥棒以外、何でもやります」 「人殺しもやりますか」 「殺し? 冗談きついですなあ」 「いや冗談じゃないです。あんた、三次駅で人を殺した容疑で連行されてきたのですよ」 「まさか、何で僕が人を殺さんといけんのですか」 「それを訊きたいのです」 「アホらしいこと言わんでください……」  北村はそこで気が付いた。 「あっ、そしたら、あの女の人のこと言うとるんと違いますか」 「女の人、というと?」 「僕が橋を渡ろうとしよったら、女の人が倒れてましたんや。いや、倒れとるのでなく、しゃがんどったのでしたか。とにかく何やら荷物の上に凭《もた》れるようにしとったですが、もしかしたら、その女の人、死んどったのですかの」 「ほう、するとあんたが通りかかった時、その女の人はすでにしゃがんでおったということですか」 「ええ」 「しかし、もしそうであるなら、なぜ救《たす》けんかったのですか」 「いや、そん時は急いでましたし、それにまさか死んどるとは思いませんでしたけん」 「それにしたって、駅員に知らせることぐらいするのが義務でしょう」 「そんなこと言ったかて、列車に乗るのが精一杯でしたもん。僕が乗るのと同時にドアが閉まったようなものでしたよ」 「それを証明することはできますか」 「証明って、何をです?」 「つまりですね、あなたが見た時には、女の人がすでに死んでいたということです」 「そんなもん、できませんがの」 「だとすると、あなたはたいへん不利な状況にあるということになりますよ」 「そんな、無茶苦茶ですがな」  北村の顔から、スーッと血の気が引くのが分かった。  しかし、北村の嫌疑はじきに晴れた。北村の供述のウラを取るために駅へ出向いた捜査員に対して、当時改札係を務めていた駅員が、確かに北村と見られる男が、芸備線広島行の発車まぎわに改札口を通過した旨、証言したのである。その駅員は、客が列車に間に合うかどうか気になって、北村の走る姿を追い続けていた。それによると、北村は改札口から跨線橋の階段まで走り、階段を駆け上って行ったという。また、跨線橋にはいくつか窓が開いているが、そこを走って通過する北村の頭が見えたし、ひき続いて、二、三番線ホームへ階段を駆け降り、列車に飛び乗るところまで確認しているのだ。その間、跨線橋の上で停止していたという感じはなかった。かりに立ち止まった程度のことはあったとしても、�絞殺�を行なえる余裕はぜったいにない、と断言した。 「だから言うたじゃないですか」  北村はがぜん居丈高になった。「どないしてくれますねん、帰られへんで」  広島行最終便は二一時〇二分に発車している。時計の針は午後九時三〇分を回ろうとしていた。     2  県警捜査一課の桐山警部に刑事部長からお呼びがかかったのは、桐山がそろそろ帰り支度にかかろうとしていた午後九時五〇分頃のことである。ある窃盗事件に関して、検察庁へ提出する調書の作成を部下に命じておいたのが、予想どおり手間取ってつい今しがたできてきた。それをチェックし終えたところだった。  刑事部長室には捜査一課長の土屋警視がいて、部長とのあいだで何やら相談がまとまったという雰囲気であった。一課長はともかく、刑事部長がこの時間まで在席しているからには、何か大きな事件が起きた証左と見ていい。  刑事部長の稲垣警視正は桐山と同じ国立大学の出身で、桐山より十六年先輩にあたる。典型的なキャリア組のエリートコースに乗っていて、来春の異動人事では山陰あたりの小規模県の県警本部長に栄転するのではないかと噂されていた。 「よお、来たか」  桐山の顔を見ると、稲垣は目を細めた。このデキのいい後輩のことは県警内部ではもちろんのこと、県庁や広島市の上層部のあいだでも評判になっている。中央政界や外国からのいわゆる�VIP�の警備などで、桐山は目を瞠《みは》るような統率力を示した。語学力はあるし、スマートだし、顔がいいと三拍子|揃《そろ》っているから、外国の賓客には大もてだった。しかもまだ三十歳の若さである。実務能力のあることは充分に立証されたし、今年中には警視に昇格、内勤の課長などを歴任しながらさらに上級職へ、というのが最も理想的な出世パターンだ。ところが桐山のやり方はひと味違った。今年の初頭頃から、何を思ったのか捜査畑への配転を希望し始めたのである。六月に行なわれた臨時の異動で希望どおり捜査一課に配属されたが、土屋一課長あたりに言わせれば、まさに「気が知れない」ということになる。エリートはエリートらしく、敷かれたレールの上を順調に走り続ければいいのであって、何も好き好んでバタバタと忙しいばかりの一課勤務なんかに入り込むことはないのだ。だが稲垣の目から見ると、桐山の�愚行�も頼もしいものに映る。「いまどきの若い者には珍しい心意気ではないか」と土屋に焚《た》き付け、「だからさ、早い時期に実績をつけさせてやろうと思う」と言う。 (存外、桐山の本当の狙《ねら》いはそこにあったのかもしれない——)  土屋がそんな勘繰りをしたくなるような気の入れようなのだ。 「じつは、土屋君とも相談したのだが、そろそろ、きみにもデカい事件《ヤマ》を扱ってもらっていいのじゃないかと思ってね」  稲垣は笑いを残したままの顔で、言った。 「それにうってつけ、と言うと語弊があるが、三次で事件が発生したという連絡が入ってね、あそこの署長は僕も気心が知れてるし、事件の進展の具合によっては、きみに行ってもらってはどうかと、土屋君に提案したところだ」 「殺人事件ですか」 「うん、三次駅の構内で若い女が殺されたというのだが、土屋君、説明してみてくれないか」  土屋が事件経過の概要を説明した。 「事件後の手配で容疑者を一人、連行したのだが、これがどうも予断捜査もいいところでね、どうやら難しいことになりそうなのだ。初めての殺人事件としては、正直、きみにとって荷が勝ちすぎるかもしれないが、部長のご期待に添って、ひとつ頑張ってみてくれたまえ」 「分かりました」  桐山は姿勢を正して一礼した。(ほう——)とその時、土屋は桐山が緊張していることに気付いた。眼鏡をかけた、端正でいかにも秀才そのものという感じの横顔がこわばり、引き緊めた口元にも緊張感が漲《みなぎ》っていた。 (この男にも、いいところがあるな——)  土屋は桐山のそうした若者らしい初初しさを発見して、少なからず堵《ほ》っとしたことだった。稲垣から桐山の起用を打診された時、土屋は賛成はしたものの、正直、一抹の不安があった。もちろん一課の警部である以上、いずれは殺人事件捜査の指揮を執ることになるわけだが、初仕事は自分の目の届く広島市内辺りの事件に当たらせたかったのである。いずれは稲垣同様エリートコースを辿って警察の中枢に組み込まれていくであろう桐山にとって、一課勤務など、所詮《しよせん》は腰掛けにすぎまい。そういう人物と、現場の下積み刑事とでは相容れ合う余地などあるはずがない。そういう目に見えないところにある微妙な軋轢《あつれき》が、捜査活動に悪影響を及ぼさなければいいがと、ひそかに土屋は危惧《きぐ》していた。  翌八月十日、県警から桐山警部をはじめ七人の一課刑事を迎えて三次署内に『三次駅殺人事件』捜査本部が設置された。捜査本部長に三次署長大友警視、捜査主任官に桐山警部が発令されている。  大友は稲垣刑事部長から一応の連絡を受けていたが、実際に桐山と会ってみて、彼のあまりの若さに驚いた。捜査は何といっても或る程度の経験が物を言う。いくらエリートでも、現場の指揮が破綻《はたん》なく務まるかどうかは別の次元の問題なのだ。  しかし桐山は捜査会議に堂堂たる態度で臨んだ。大友の紹介を受けると、直ちに捜査の現状について矢継ぎ早に質問を発した。  事件発生から北村義夫の連行、釈放に至る経緯を森川警部補が説明し終えると、視線を向けて、 「それだけですか?」  と言った。森川が質問の意図を量《はか》りかねていると、 「広島行列車の他の乗客についてはチェックしなかったのでしょうか」と続けて訊いた。  三次署の刑事たちは顔を見合わせた。その中から落合刑事課長が代表する形で答えた。 「それは残念ながら実施していないのです。なにぶん、時間的に切迫した状況にあったもんで、北村を捕捉《ほそく》するのが精一杯といった有様でしたから」 「なるほど、しかし、北村という男ひとりに対象を絞ったのは少し軽率だったのではありませんか」 「うーん、そう言われると辛いんですが……」  落合は渋い顔をした。落合にかぎらず、三次署の幹部連中は初動捜査の不備を認めている。桐山の指摘はそれをもう一度念押ししているわけで、以後の捜査が不調に終わるようなことになった場合に備えての�伏線�と受け取れないこともない。 「しかし、あの時点では、駅員の証言などから�青シャツの男�を特定して手配せざるをえないような状況でしてねえ」  落合の言葉はいかにも弁解じみたものに聞こえた。桐山はその効果を充分に確認してから話題を転じた。 「ところで、被害者に関するデータを聴かせてください」 「被害者は正法寺美也子、二十九歳、東京のOLです」  森川がメモを見ながら言った。居並ぶ捜査員たちは一斉にペンを走らせる。  殺された女性の身元は事件直後の所持品調査で明らかになっている。死体の脇にあった大ぶりの旅行バッグから、布製のセカンドバッグが出てきて、中に財布、手帳などと一緒に身分証明書の入った定期券入れがあった。   東京都千代田区外神田三丁目×番×号   株式会社立花音響PR課      正法寺美也子      昭和二十×年三月三十日生  これが身分証明書の記載内容である。またバスの定期券の住所は、   東京都文京区|西片《にしかた》二丁目×番地×号であった。 「すでに自宅と会社の方には連絡を取りまして、本日午後には家族と会社の上司の方がこちらへ見えることになっとります。なお、家族から聞いたところによりますと、被害者の正法寺美也子さんは会社の夏季休暇を利用して四泊五日の予定で山陰から山陽へ抜ける旅行に出かけたということでありました」 「すると、彼女は山陰から山陽へ向かう途中、奇禍に遭ったというわけですか」 「いや、われわれも当初はそう考えたのですが、それがどうもそうじゃないらしいのです。と、いいますのは、彼女が東京を出発したのは八月五日で、つまり、殺されたのは四泊五日の日程の最終日に当たるわけですが、家族に話していた日程によると、三次には三日目の八月七日夜に泊まり、八日は尾道に宿泊して九日に帰京の途に着くという計画だったそうです」 「しかし、日程が遅れているとも考えられるでしょう」 「ところがです、被害者の財布の中に三次市内の環水楼という旅館と、尾道市の秀波荘という旅館の領収証がありまして、宿泊日はそれぞれ七日、八日の予定どおりになっているのです。しかもですね、旅行バッグのポケットには尾道駅で九日に発行された東京都区内行の乗車券と新幹線の指定特急券が入っていて、その座席指定は八月九日の上り�ひかり138号�6号車11番B席のものでした。ひかり138号は福山発一一時五七分で、山陽本線尾道発一一時〇〇分、福山着一一時一九分の列車がこれに接続していますから、おそらく彼女はその列車で福山まで行き、そこから予定を変更して、福塩線で三次へ向かったものと考えられます」 「ちょっと待った、尾道から三次へ来るのだったら、国鉄バスを利用すれば一直線だし、時間的にも速いのじゃないですかね」 「はあ、確かにそうなのですが、現実に被害者の持っていた切符にはハサミが入れてあるので、列車を利用したことは間違いないと思います。思うに、彼女は最初は予定どおり帰京するつもりで切符を買い列車に乗ったが、福山に着いてから気が変わったのではないでしょうか」 「なるほど、いや、分かりました。なかなかよく調べましたね」  若い指揮官に褒められて、森川警部補は擽《くすぐ》ったそうな顔になった。森川は落合刑事課長より一つ歳上の四十二歳である。ノンキャリア組の中でも昇級の遅いクチだが、それだけ現場第一主義の権化だったことの証拠と言うことができる。捜査の手順、ツボに精通した実戦派タイプそのものだ。 「その分では、福山から三次への足取りについても調べがついているのでしょうね」  桐山は森川を持ち上げるように言った。 「はあ、福塩線の下りは、福山発一一時五三分というのがありまして、それに乗りますと府中に一二時四〇分に着きます。ご承知かと思いますが、福塩線は府中—三次間はまだ電化されておりませんで、すべての列車が府中止まりになっています。府中での乗り継ぎ便は一三時一五分発、三次着一五時三六分の列車があります。これを利用した公算が強いので、現在、捜査員を派遣して、府中駅の駅員の中に被害者らしい女性を目撃した者はいないか確認を急いでいます」  タイミングよく、その件の連絡が入ってきた。確かに森川の言った乗り継ぎの時刻に、被害者・正法寺美也子は府中駅のプラットホームに立っていたのである。美也子の死顔が写っている写真を見て、二人の駅員が「間違いありません」と断言している。 「言うたらなんじゃけど、スタイルの割にブスじゃけん、よう憶えとります」と付け加えたそうだ。 「すると、被害者は一五時三六分着の列車で三次駅へやってきたということになります。駅に問い合わせたところ、その列車は十五分ほど遅延したそうですから、まあ、一五時五〇分頃に到着したと考えていいでしょう。その約三十分後に彼女は殺されたわけです」  森川の説明が終わると、一時《いつとき》、沈黙が流れた。刑事たちは思い思いにメモを読み返して事件の経過を反芻《はんすう》している。その中から県警から来た宮下という部長刑事が発言した。 「三次駅へ着いてから死ぬまでの三十分間ですがね、彼女はずっと跨線橋の上にいたということでしょうか」 「どうもそうらしいですな、プラットホームには売店のおばさんと駅員がひとりおったんじゃが、その両人とも彼女を見ておらんちゅうことでした」 「だとすると、その間、彼女いったい何をしていたのでしょうか」 「それが判らんのです。常識的に考えれば乗り継ぎ列車を待っていたということじゃが、それだと、一六時二二分発の広島行か、あるいは一七時二三分発の備後落合《びんごおちあい》行か、この二本は芸備線の上りと下りじゃが、それか、三江《さんこう》線・一七時五八分発の江津《ごうつ》行ということになります。それにしても、東京行の切符を持っとって、どこへ行くつもりじゃったものやら、さっぱり見当がつきませんな」 「そうそう、第一の謎《なぞ》はそれですね。いったい彼女はなぜ帰京するはずの予定を急遽《きゆうきよ》変更したのかということ……」 「しかし」  と桐山が遮った。「そのことと事件とのあいだに関連があるとはかぎらないだろう」 「それはそうですが……」  宮下は顎を撫《な》でて、黙ってしまった。県警のベテラン刑事にしても、この若いエリート警部はとっつきにくい上司であるらしい。 「謎ということですと」と森川が言った。 「犯行の目的が何か、という点がまた、さっぱり掴めないのです。被害者の所持品はいまのところ旅行バッグとその中身だけなのですが、発見された時、バッグのファスナーは閉まったままだったそうで、財布その他、中身に手をつけた様子はありません。また、被害者はかなり高価なサファイアの指輪と外国製の腕時計をしよりましたが、これも盗《と》られていないのです」 「それはこういう事じゃないですかね」  桐山は思慮深い目を見せて、 「犯人は盗みを目的として被害者を襲ったが、その時、階段を駆け上がってくる北村の跫音《あしおと》に気付いて、何も盗る間もなく立ち去り、列車に乗り込んでしまった——、つまり、北村よりひと足先に乗った人物が犯人ということ」 「まずそのセンが強いでしょうねえ」  森川が同調し、他の者もその説には異論はなさそうだった。 「もうひとつ、単なる通り魔の犯行という見方もできるね。しかし、いずれにしても北村の直前に乗った人物という点は動かないでしょう。すると、やはり北村以外の乗客をチェックしなければならないことになる」  話はどうしてもそこへ戻ってきて、重苦しい気まずさが漂った。 「現段階では、ともかく一六時二二分発の列車に三次駅から乗った客を洗うことに捜査の重点を置くとして、チームを二つに分けることにします」  桐山はようやく捜査方針をうち出した。  第一のチームは、主として三次駅の駅員や当時の乗降客に対する聞き込み調査によって、広島行列車の乗客を割り出すこと。第二のチームは、三次—広島間の各駅について、当該列車から降りた客に不審者がいなかったかどうかを調べること。とくに、犯人は当然車内臨検のあることを予想し、途中下車して逃走した可能性があるから、それについては入念な捜査を行なうよう。——以上がその骨子であった。それぞれのチーム編成も直ちに行なわれ、県警と三次署の捜査員はバランスよく振り分けられた。当然のことながら、県警主導型の編成になっている。三次署の刑事は県警の刑事に対して補助《サブ》的な役割を務めるわけだ。そのことはいいとして、三次署側が首を傾《かし》げたのは、野上部長刑事が二つのチームから外されたことだった。 「きみは石川君と一緒に別の仕事をやってもらう。つまり第三のチームということだ」  桐山はそう言って、捜査会議が解散したあと、二人をそのまま室に残した。石川というのは県警から来ている若い刑事である。まだ警察学校のカラが尻《しり》にくっついていそうな、素人《しろうと》っぽさがあった。しかし、それでも一課に所属しているだけのことはあって、並の若い連中とはどこか違う、目端《めはし》のきいたすばしこさを感じさせる。 「きみたちは被害者側のデータをまとめてくれるように」  桐山は二人を身近の席に呼び寄せて、命じた。 「まず、さしあたり、今日の午後到着するという家族の応接だね。それが終わったら、被害者の旅行のルートを追跡調査する。旅行中に何者かと接触した形跡はないか、なにしろ女の独り旅だからね、いくらブスだからと言っても、男の一人や二人、関心を示さないということもあるまい。その辺をしっかりおさえることだ。まあ、できれば尾道から東京へ帰るはずのものが、なぜ予定を変更したかが判ればいいのだが、そこまで望むのは無理というものだろう」  最後の言葉を言う時、桐山の眸《め》にチラッと軽侮《けいぶ》の色が宿っていたように、野上には思えた。それというのも、石川などという若者を当てがわれて、捜査の本筋とは関係のなさそうな作業を受け持つ羽目になったことに対する僻《ひが》みがあったせいかもしれない。まったくのところ、第一、第二のチームに野上巡査部長が参加しないというのは、野上自身はもとより、三次署の連中にとっても理解に苦しむ話であった。野上はいわば三次署きっての働き者だ。県警の猛者《もさ》連中に伍《ご》してもヒケを取らないと信じている。だが明らかに桐山警部は野上を軽く見たのである。いや、野上個人というより、三次署という田舎警察の刑事そのものを軽く見たというべきだろう。もしそうでなければ、当然、地元に詳しい野上を第一、第二のチームに参加させているだろうし、また、もし第三のチームの目的《プロジエクト》を重視するというのであれば、そこには県警のベテランを配置する筈だ。 (舐《な》められたものだ——)と野上は自分より三つか四つ歳若い警部に、かすかな反発を覚えた。     3 「蚊帳の外、みたいなもんですね」  石川刑事は遠慮のない口調で言った。捜査本部を置くことになった会議室を出て、階段の上まで来てはいたが、話し声が筒抜けになりはしまいか、と野上はひやりとした。 「おいおい、聴こえるよ」 「あ、いけねえ」  石川はペロッと舌を出した。小柄だがプロポーションのいい陽気な若者だ。 「でも、野上さん、そう思いませんか。家族の応対なんか、警務課の仕事でしょう」 「そうとも言えんじゃろ、家族や上司の話から、今回の旅行の目的なんかも訊けるし、被害者の性格なんかについてもいろいろ訊き出すことができる」 「それはそうですが、しかし、この殺しは単純なものでしょう。いまさらそんな話を聞いても、大して役に立つとは思えませんがねえ」 「まあそうボヤかんと、割り当てられた職務を全うすることじゃね。いずれにしたって誰かがやらにゃならん仕事なんだから」  本音とは裏腹に、野上は石川の不平をたしなめた。もっとも、他の者と異なる捜査目的を持つことに対して、野上はそれなりに好奇心のようなものを抱いていたから、石川がボヤいたりするほどには不満を感じなかった。それに被害者の女性がたった独りで旅行した目的は何か、また、帰京予定を変更して再び三次へUターンしてきた理由は何か、などといったことを考え始めると、謎解きの興味も湧いて、ひとつこっちの方で警部の鼻をあかしてやろう、という気にもなるのだった。  被害者に対する司法解剖は市内の病院で、広島大学法医学研究室の手によって行なわれている。その結果、正法寺美也子の死因は絞殺による窒息死と断定された。ただしそれ以前に鳩尾《みずおち》に当て身を食らった痕跡があって、犯行の手口は、次のように分析された。  犯人は正面から美也子に接近し、右拳《みぎて》で鳩尾を突き、失神するところを背後に回って、右腕を首に巻き、左手でその右手首を抱え込むようにする、つまり柔道における絞め技《わざ》を用いて一気に絞殺した、というものである。手口から見て、並の素人ではない、柔道か空手の熟達者、という犯人像が浮かんだ。  美也子の遺族——母親と兄——は美也子の上司である坂巻という男に付き添われて、午後二時過ぎに到着した。母親は六十歳近い小柄な女で、見るも気の毒なほど疲れ切っていた。それに反して兄の方は恰幅《かつぷく》のいい青年実業家といったタイプで、名刺には大手商事会社の課長の肩書があった。 「正法寺尚之、美也子の兄です」  振幅の大きいバリトンだ。眉《まゆ》は太く、目は大きく、鼻は高く、どう見ても殺された美也子とは似ても似つかない。遺伝子の優秀な部分をすべてこの兄が吸収してしまった結果が、あの可哀相《かわいそう》な妹なのか、とさえ思えた。  病院の遺体安置所へ案内して、野上は死者の顔を蔽《おお》っている白布を取った。 「美也子さんに間違いありませんか」  母親は声もなく、いよいよ小さくなってハンカチを幾度も眼に当てながら頷《うなず》いた。 「美也子ですな」  尚之の方は声の調子も変えず、腕組みをして妹の死顔を見下ろしていた。悲しみの色はなく、冷静を通り越して、傲岸《ごうがん》な感じさえ与える。 「いったいこれは、どういうことなのでしょう」  尚之は憤ったように言った。 「どう……、と言われると?」 「美也子はどういうわけで、こんなことになったのかと訊いているのです」 「それは現在、捜査中です」 「では、犯人はまだ捕まってないのですか」 「残念ながら……。しかし警察は全力をあげて捜査を進めておりますから、早晩、事件は解決するでしょう」 「ぜひそうあって欲しいものですな」  まるで美也子の死の原因が警察にあるとでも言いたげな尚之の態度に、野上は腹が立った。そのことは母親も感じたらしく、 「いろいろお手数をおかけいたしますが、なにぶんよろしくお願いいたします」  息子の分まで丁重に頭を下げた。  そのあと、ふたたび署へ戻って、野上は三人を応接室へ案内した。冷房設備のない三次署の中で、ここだけはクーラーが入っている。  石川刑事が美也子の遺品を運んできた。 「現場に残されていたのは、このバッグだけなのですが、いかがでしょう、この中身を見て、何か足りない物があるかどうか分かりませんか」 「それはたぶん分かると思います」  母親が確信ありげに言った。 「美也子の旅の支度をわたくしも手伝いましたので、バッグにどのような物を入れたか、だいたいは記憶しております」  バッグには財布、手帳、時刻表、定期券入れ、洗面具、化粧道具のほかは若干の着替えと下着の入った紙袋——未使用の分と使用済の分と——などがあって、男の目には触れさせたくないものもある。母親はそういうものを、刑事の視線から庇《かば》うようにして調べた。 「わたくしの記憶しておりますものは全部揃っておるようでございます。何も盗《と》られてはおりません」 「土産物がまったくありませんが、何か買ったというような話は聞いていませんか」 「いいえ、今度の旅行では土産物類は一切買わないから、と申しておりましたし、最後に尾道から電話を寄越しました時も、予定どおり明日《あす》帰るけれど、お土産はなしよ、と笑っておりましたので……」  語尾が涙でかすれた。 「明日《あす》帰る、とはっきり言われたのですね」 「はい」 「しかし、実際には福山から三次へ向かったわけですが……」  野上はメモを取り出した。 「予定では、八月五日に東京を発ち、同夜は松江に泊まり、六日は仁多《にた》町、七日は三次、八日は尾道に泊まって九日に帰京ということでしたね」 「はい、それはお電話で申しあげたとおりで、ただし予定が変わるかもしれないが、その時は宿泊先から連絡を入れるから、という約束になっておりました」 「ところが予定は変更されなかったのですね。財布の中にあった宿泊先の領収証もそれを裏付けています。旅行は計画どおり順調に進んでいったように思えるのですが、最後にきて予告なしに予定を変えてしまわれた。その点について、何か心当たりはありませんか」 「いいえ……」  母親は力なく首を振った。 「ところで、今回の美也子さんの旅行の目的ですが、単なる観光旅行にしては、ちょっとめずらしいコースだし、それに独り旅というのも腑《ふ》に落ちない気がするのですが、美也子さんという方は、日頃から孤独癖のようなものがあったのですか」 「さあ、そんなことはないと存じますが」 「会社ではどうでした」  質問を坂巻に向けてみた。坂巻は四十歳前後、齢《とし》の割には頭髪が薄く、物腰にも思慮ぶかい老成したところのある男だ。 「いや、正法寺さんに孤独癖があったとは考えられません。会社の同僚とも分け隔てなく付き合っておられましたし、社員旅行などの際には自分から進んで幹事役を買って出たりするようなところもありました。もっとも、個人的にベタベタした付き合い方をするのは嫌いだったのか、こう言ってはなんですが、年齢のせいもあるのでしょうか、若い女の子たちとは一線を画していた感じはあったかもしれません」 「男性とのお付き合いはどうだったのでしょう」 「それは、じつにさっぱりしたものだったと思います」 「ご結婚の話はなかったのですか」  ふたたび鉾先《ほこさき》を母親に向けた。 「多少はございましたが、どちらさまともご縁がございませんで……」 「そりゃ、あんた、あのご面相ですからね」  尚之が露悪的に言った。「縁談はあるにはあっても、まとまるはずはない」 「尚之さん」  母親がたしなめた。 「それでは改めて訊きますが、今回のコースを選んだ理由について、何かお聴きになっていませんか」 「たしか、以前旅行したコースを、もう一度通るのだ、というふうに聴いていましたが」  坂巻が言うのを、尚之は「余計なことを」と言わんばかりの目付きで睨《にら》んだ。 「ほう、以前旅行されたのですか」  野上はすかさず、尚之に訊いた。 「それは、いつ頃のことです?」 「ずいぶん昔ですよ、彼女《あれ》が学生の頃ですから」 「その時もお独りでしたか」 「いや、女子大の友人とふたりでした」 「すると、その時の目的は何だったのでしょうか」 「卒論を書くための研究旅行だとか言ってたが、半分は遊びのようなものでしょう」 「ソツロン?……」  脇でメモを取っている石川刑事が「卒業論文ですよ」と囁《ささや》いた。 「ああ、それは、何の研究だったのですか」 「よくは知りませんが、テーマは確か、後鳥羽院の事蹟に関するものだったと思いますよ」 「ゴトバイン、というと?」 「後鳥羽法皇のことでしょうが」  何も知らん男だな、と言いたげに尚之は野上を睨んだ。「後鳥羽法皇に関する伝説がこちらにはあるのじゃありませんか?」 「はあ、いや、よくは知りませんが」  きみ、知っとるか、と石川を見返ったが、石川は首を左右に振った。 「その伝説というのは、どういうものでしょうか」  野上は尚之に訊いた。 「いや、私だって聞きかじり程度に知っているだけですからな、詳しいことは分からないが、確か、京都から隠岐《おき》へ流される際、尾道からこの三次付近を通って山陰の方へ抜けて行ったというようなことじゃなかったですかね」 「はあ、そんなことがあったのですか。それはいつ頃のことです?」 「いつ頃って、あんた、承久《じようきゆう》の変の後ですから、八百年近く昔のことでしょう」 「ジョーキューノヘン……」  歴史は大の苦手だったから、こういう話になるとさっぱり理解できない。尚之は呆《あき》れ顔になった。 「ここで歴史の話をしていても始まりませんよ。そんなことは後で調べたらいいでしょう」 「そうさせてもらいます」  野上は苦笑した。 「ところで、いまのお話によると、伝説というのは後鳥羽法皇が尾道から山陰へ向かったのでしたね、だとすると、美也子さんの旅行も尾道からスタートしそうなものですが……」 「あ、そのことでしたら理由《わけ》がございます」  美也子の母親が野上の疑問に答えた。 「八年前に参りました時には、確かにおっしゃるとおり、尾道から出発したのでございますよ。でも、今回は試しにその逆のコースを辿ってみるのだと申しておりました。もしかすると、反対側からやって来る、昔の自分に逢《あ》えるかもしれない、などと冗談を申したりいたしまして……」  母親はただ懐かしそうに喋《しやべ》っているだけだが、野上は一瞬、背筋がゾクッとした。「昔の自分に逢う……」などという発想は、普通ではない。 「ちょっと失礼なことをお訊きするかもしれませんが、美也子さんという方は性格的に変わったところのある方ではなかったでしょうか」  三人の客は顔を見合わせた。その中から母親が悲しい眸《め》を野上に向けて、言った。 「じつは、あの娘は事故に遭いまして……」 「お母さま、そのことはおっしゃらなくてもよろしいでしょう」  ふいに尚之が強い口調で言った。野上は、大の男が「お母さま」と、稚《おさな》い言葉を使うことにも驚かされたが、その口調の裏に隠されている秘密の匂《にお》いを嗅《か》ぎつけて緊張した。 「その事故というのは何でしょうか」 「それは今度の事件には関係ないことです」  尚之は突き放すように言った。 「まあ、そうおっしゃらずに聴かせてください。隠されると知りたくなるのが人情でしてね」 「いや、別に隠すわけではない」 「それならいいではありませんか」 「わたくしからお話しいたしましょう」  母親が静かに言った。 「八年前の旅行の終わりに、島根県の仁多町で美也子たちが泊まった民宿の裏山が土砂崩れを起こしまして、生き埋めのようなことになったのでございます」 「生き埋め、ですか」 「はあ、幸い一命はとりとめたのですが、美也子はその時のショックで記憶喪失症になりまして、大学の方も中退し、もちろん論文どころではなくなったのでございます」 「記憶喪失……」 「そうですよ」  尚之はにがにがしい顔で野上を睨んだ。 「その後の治療で、かなりの部分は回復しましたがね、完全に記憶を取り戻すことはできなかった。こちらの坂巻さんのところに無理にお願いして、一応、人並な社会生活を送らせていただいたが、一種の精神障害者であることには変わりはなかったわけです」 「いえ、そんなことはありませんよ」  坂巻は真剣な態度で言った。 「正法寺さんはわが社でも有用な人材でした」 「ありがとう、そう言ってくれると、たとえお世辞でも……」 「いや、お世辞ではありませんよ」 「ところで……」  野上は、二人のやりとりのあいだに割り込んだ。 「その事故の際、お友だちの方はどうだったのですか」 「亡くなられました」 「えっ、亡くなった……」 「はい、ほんとうにお気の毒なことでございましたが、美也子同様、生き埋めになりまして、掘り出された時にはもうすっかり……」 「それはたいへんな災難でしたねえ」 「はあ、それで、今回の旅行の主な目的は、お医者様にお奨めいただいたこともございまして、昔通った風景などを見て喪われた記憶を呼び醒《さ》まそうとすることでしたけれど、もうひとつには、亡くなられたお友だちのご冥福《めいふく》をお祈りする目的もございましたようです」 「なるほど、ところで、これは参考までにお訊きするのですが、美也子さんは他人に恨まれるようなことはありませんでしたか」 「そんなこと、あるわけがないですよ」  尚之が言下に答えた。 「失礼ですが、正法寺さんのお宅の家族構成はどのようになってますか」 「この母と私と家内と長男、それに美也子と弟です。父は一昨年亡くなりました。また、弟は現在アメリカに留学中です」 「美也子さんは性質はどういう方でしたか」 「それはあなた、優しい娘《こ》でございました」  母親は心の底から、しみじみと言った。 「先程申しあげましたように、心の傷はございましたが、それを別にいたしますれば、ほんとうに明るい、気立てのいい娘でした」 「会社でも、まったくおっしゃるとおりのお人柄でしたね」  坂巻も強調した。 「仕事はよくできたが、控え目で、さすがに|お育ちのよさ《ヽヽヽヽヽヽ》を感じさせる方でした」 「すると、記憶喪失は仕事に差し支えるような影響はなかったのですか」 「まったくありませんでしたね」 「ふーん、私はよく知らないのですが、記憶喪失というのは、具体的にどうなってしまうのですか」 「まあ、いろいろあるようですが、美也子の場合は当初はほとんど全部、何が何だか分からないというような状態だったらしい」  尚之が答えた。 「しかし、じきに記憶は回復し始め、生活に必要な知識はだいたい戻りましてね。ただどういうわけか、学校のことに関する記憶が欠落しているのですな。たとえば死んだ友人のことなんかについてはまったく忘れている。まあ、あとで写真を見たり人の話を聞いたりして、そういうことがあったのか、と、逆に知識を補充したから、実際には全体として記憶の辻褄《つじつま》は合ってきましたがね。精神医の話によれば、記憶喪失というのは、コンピューターの回路が一個所はずれて、その部分のシンクタンクが作動しないような状態だそうですが、確かにそんな感じではありました」 「なるほど、そういうものですか」  また沈黙が訪れた。野上の脳裡には、峠路を大きなバッグを提げて歩く美也子の姿が白日夢のように浮かんだ。喪われた自分自身を求めて、正法寺美也子は山陰から山陽へ、ただ独りの旅をした。 「しかし、なぜまた、三次へ戻ってきたのだろう……」  自分の呟きに驚いて、野上は顔をあげた。全員が野上を見たが、誰もその問いに答える言葉を持っていない。  正法寺親子はもう一度、病院へ戻ることになった。その日の内に美也子の遺体を荼毘《だび》に付して、明朝早く、東京へ還るという。 「どうもいろいろお世話さまでございました」  母親は丁重に礼を言い、傲岸に見えた尚之も最後にはいくぶん親しみのこもった挨拶《あいさつ》をした。  応接室を去る三人の中から、野上は坂巻を呼び留めた。 「坂巻さん、ちょっとつかぬことを訊きますが、先刻、あなたは美也子さんのことを『お育ちがいい』と言われましたね」 「ええ、言いました」 「それはどういう意味ですか」 「ああ、それはですね、正法寺家というのは京都のお公卿《くげ》さんの出で、華族様だったのですよ。ウチの社の会長などは昔、先代さんを殿様、尚之さんを若様とお呼びしていたことがあるそうです」 「なるほど」  野上は尚之の傲岸さが、ようやく理解できた。  第二章 心の旅路     1  正法寺美也子の足取り調査は、美也子の旅程の上で二泊目にあたる島根県|仁多《にた》町から始めることになった。第一泊目は松江市の宍道《しんじ》湖畔の旅館に泊まっているので、その方の調査は所轄署に依頼した。その結果、美也子はその旅館に八月五日の夕刻頃到着、翌朝九時過ぎに出発しており、夕食後に一時間ほど外出したほかには変わった様子はなかったということであった。むろん、同伴者はなく、また、彼女に接触しているような人物の気配もまったく感じられなかったそうだ。  八年前の旅行の際に、松江が予定コースに含まれていたかどうかは知る由もないが、今回の旅行では松江は単なる通過地点にすぎないように思える。美也子の目的からいうと、旅の本当の意味は仁多町から始まるのでなければならなかった。  仁多町は国鉄の駅名でいうと「出雲三成《いずもみなり》」である。三次からは木次《きすき》線経由・米子行の列車に乗ることになる。松本清張の名作『砂の器』に出てくる『亀嵩《かめだけ》』のひとつ先の駅だ。  野上と石川は午《ひる》少し前に出雲三成の駅に降り立った。どういうわけか、町の玄関口であるはずのこの駅は市街地からポツンと離れた場所にあって、二人は照りつける太陽の下を十分あまり歩かされた。仁多警察署にはあらかじめ連絡しておいたので、警務課の警部補が待機していてくれた。 「お忙しいところ、ご面倒おかけします」 「なんの、お互いさまじゃけ、しかし当時の者は誰もおらんようになってしもうて、こんな資料しかないんじゃが」  テーブルの上に出された事件記録によると�生き埋め事故�の概要は次のようなものであった。  昭和四十×年八月二十九日、台風十一号によってもたらされた豪雨は中国地方北部山沿いに、各所で山崩れなどの被害をひき起こした。二十九日払暁、仁多町字|美女原《びじよはら》の小野安雄宅裏山が長さ五〇メートル、幅一二メートルにわたって表層が崩れ、同家離れを直撃した。小野家は当時、民宿を経営しており、同夜、離れには二名の女子大生が宿泊していたが逃げ遅れ、二名とも土砂と倒れた家の下敷になり、救出作業の結果、一名は救出されたものの、一名は死体で発見された。  その二名の女子大生というのが、正法寺美也子と、その友人の浅見祐子だった。 「そん時の女性が殺されたそうやなあ。ふしぎな因縁と言うべきじゃろうか」 「死んだ友人の霊魂が呼び寄せた、などと言う人もおります」 「ほんま、そういうことかもしれんで」  ははは、と警部補は笑い、真顔に返って、 「ところで、今度の事件は八年前の事件と何ぞ関係あるんですか」 「いや、そうではないのですが、今回は被害者の宿泊地での行動を調べるのが目的で、八年前の事故のことはついでのようなものでして」 「そうでしょうな、因縁ばなしならともかく、現実はそうドラマチックにはいかんもんです」 「ところで、その時の事故というのは、まったくの天災だったのでしょうか」 「というと、何か疑問な点でも?」 「いえ、そういうわけではありませんが」 「そりゃ、天災でしょう。土砂崩れですからな。私は当時、この隣の横田署に勤務しとったで、よう憶えとりますが、あん時の雨は凄まじいものでした。ずいぶんあちこちで崖崩《がけくず》れがありましたし、まあ一種の不可抗力といったところでしょうな。しかし、気になるんじゃったら、美女原の現場へ行かれたらよろしい」 「はあ、そうしてみます」  野上と石川は礼を言って、仁多署を後にした。  今度の旅行で美也子が泊まった旅館というのは、警察からほんの少しのところだった。表通りに面しているが、一階の大部分は食料品店になっていて、店の脇に奥へ続く土間があった。 「昔はあんた、これで結構、旅の人が多かったですがの。オリンピックがあった頃からすっかりいけんようになってしもうて」  応対に出た婆さんが、聴きもしないことをペラペラと喋った。 「このあいだの、えーと八月六日ですがね、正法寺美也子という人が泊まっているはずなのだが……」 「へえ、お泊まりでした。めずらしい名前ですよってに、よう憶えとります。女のお客さんおひとりいうのもめずらしいですけんの」 「すると、ひとりだったですか」 「へえ、おひとりでした」 「六日の何時頃きました」 「お昼ちょっと過ぎでしたじゃろか、そんでも荷物だけ置いて、すぐ出て行きんさったが」 「どこへ行ったか分かりませんか」 「美女原いうてましたな。地図を書いてさしあげましたけんの」 「それで、何時に戻ってきましたか」 「四時頃、でしたかの」 「そのあとは」 「そのあというて、晩のご飯召し上がって、お風呂《ふろ》、お入りんさって、寝んさったがの」 「次の日は」 「九時頃お発《た》ちなさったが、そのお客さん、何ぞおましたですかの」 「いや、そうではないのですが、それからどっちへ行かれたか分かりませんか」 「三次へ行くと言うとられました。あ、そうそう、汽車でのうて、バスで峠越えなさるとかで、バスの時間をお訊きでした」  婆さんに美女原までの道を尋ね、二人はまた街道をテクテク歩いた。四辺を山に囲まれているせいか、風が吹かない街だ。 「野上さん、骨惜しみするわけではありませんが、こんなことを調べても無駄なような気がするのですけどねえ」  石川は首筋の汗を拭《ふ》きながら言った。 「八年も昔のことと、今度の殺しと結びつくはずがないですよ」 「そうかもしれんが、どうも僕はそういうつまらんことが妙に気になる男やね。精神医学で言うたら、コンピューターの配線が絡《から》まっとるのやろか」  柄でもない野上のジョークに、石川は大きな声で笑った。  美女原は市街地のはずれから五、六分の、川と山に挟まれた狭い土地だ。そこに一軒だけ家が建っている。表札に「小野安雄」とあるから、ここが民宿なのだろう。そういえば建物の右にある物置小屋の背後に、かつて土砂崩れが起きたと見られる急傾斜の山があった。  訪《おとな》うと、赤ん坊を抱いた女が出てきた。赤ん坊は女の豊かな胸の上に頭を載せるようにして、額にじっとりと汗を滲《にじ》ませながら眠っていた。野上は手帳を示して、 「こちら、民宿をやっておられる小野さんのお宅ですね」 「小野ですが、いまはもう、民宿はやっておりません」 「ああ、やめてしまわれたですか」 「ええ、以前、ちょっと事故があったもんですから」 「八年前の土砂崩れのことですか」 「そうです」 「じつはそのことでお邪魔したのですが、どなたか分かる人はおられますか」 「私でよければ」 「しかし、あなた、お嫁さんでしょう」 「ええ、でも、ここの娘ですから」 「ああ、それじゃ、ご養子さんを……」  女はあの日のことは忘れたくても忘れられない、と、眉をひそめて言った。  仁多署の警部補が言ったように、その時の雨は猛烈なものだったらしい。夕方まではそれほどでもないと思っていたところが、台風の進路が東へ変わったというニュースを聴いた夜半頃から、雨音で人の話が聴こえないほどの土砂降りが何時間も続いた。家の前を流れる斐伊《ひい》川がぐんぐん水嵩《みずかさ》を増しているのが分かったので、家人はそのことを警戒して交代で起きていた。しかし異変は裏山で起こりつつあった。 「はじめ、屋根や壁に小石がはねる音がしたのです。お父さんが『これはいけんで』言いんさって、みんなを起こしにかかりました。離れのお客さんにはわたしが声をかけに行きました。土間へ飛び込んで大声で叫んだら、襖《ふすま》を開けてお客さんが顔を出しました。もう洋服を着ていなさったので、大丈夫やろと思い、私は外へ出ましたが、お二人はなかなか現われないで、そのうち、どどーんという音がしたか思うたら、地面が地震のように揺れて、離れが動きはじめたのです。電気はまだ点《つ》いておって、窓が吹き飛ぶと家の中がよう見えました。亡くなられた方《ほう》のお客さんがしゃがみこんでいるのを、もうひとりの方《かた》が一所懸命手を引っ張ろうとして、でも腰が抜けたみたいに立ちあがれないので諦めて、窓の方へ向かって助けを呼ぶような恰好になった時、電気が消え、それからもう何が何やら分からんようになりました。お父さんが警察まで走って行って、消防団やら町の人やらが駆けつけて投光器で照らした時は、離れは半分土砂に埋まって、潰《つぶ》れてしまって、そこへまだ後から後から土砂が降ってきて、手のつけられん有様でした」  結局、本格的な救出作業が始まったのは夜が明けてからだった。土砂崩れは四時頃に発生したから、三時間近く経ってようやくひとりが救出されたことになる。正法寺美也子は窓近くまできていたために柱と柱で作られた空間に閉じ込められたような状態で、気を失ってはいたが、見たところほとんど無傷だった。  浅見祐子の方はそれからさらに一時間以上かかって掘り出された。この方はまともに建物の下敷になっており、すでに死亡していたが、それでも、死亡時刻は六時頃と見られ、もう少し早ければあるいは、と、人びとを残念がらせたのだった。 「そのことがあってから、民宿はもうやめだ言うて、お父さんは農協の仕事をしております」  この話は何度も繰り返したとみえて、女はじつに要領よく喋った。 「なるほど、たいへんよく分かりました。ところで、その時のお客さんが最近こちらへ見えたでしょう」 「はい、お見えでした」 「それは八月六日ですね」 「そうです。事故の時の話が聴きたいと言われて、いまの話をお聴かせしました。でも、あのお客さん、殺されたのでしょう」 「そうです、知っとられたのですか」 「ええ、こっちの新聞には出なかったみたいですが、お父さんが広島へ行った時、むこうの新聞に出とった言うてました。ちょっと気味わるい話ですけん、誰にも言わんようにしとりますが」 「そのお客さん——正法寺美也子さんが六日に見えた時、ほかに何か言ってましたか」 「ええ、なんでも、あの事故で記憶喪失になられて、それをなおすためにこちらへ来んさったとか言うとられました」 「それで、効果はあったようですか」 「さあ、どうですか、そこの庭先にじっと立って、裏山を見上げたりしとられましたが、私らにはよう分かりません」 「そのあと、彼女がお宅から帰られたのは何時頃でしたか」 「お見えになったのが一時頃でしたから、二時ちょっと前だったと思います。町に図書館はないか、お訊きでしたが、そういうものはないので、役場へ行かれたらいいとお教えしました」 「図書館?……、何か調べたのかな」 「後鳥羽法皇のことが書いてある歴史の本を探すとか言うとられました」  またしても後鳥羽法皇か——と野上と石川は顔を見合わせた。 「その後鳥羽法皇ですがね、昔、ここを通って隠岐へ向かったちゅうこと、あなたは知っておられますか」 「伝説でしょうがの、それやったら聴いたことはあります。広島県の高野《たかの》町から王貫《おうぬき》峠を越えて、この三成へ下りてこられたそうですがの。じゃけん、三成はほんまは�御成�——御の字を書くのがほんとじゃ言います。それと、仁多という地名もそん時から付いたという話もあります」 「なるほど、仁が多いちゅうわけですか」  野上までがなんとなくそんな気になるくらいだから、土地の人間なら心底、その伝説を�史実�として信じていたとしても不思議ではない。  それにしても、正法寺美也子にとって後鳥羽法皇とはいったい何だったのだろう——。  その疑問が野上の脳裡に、遠い漁火《いさりび》のように見えはじめた。  眠っていた赤ん坊が暑苦しさに堪えかねたように泣き出したのを汐《しお》に、帰路に付いた。 �峠越え�バスの終点は、細長い街を縦断した反対側にある。二人の刑事は重い足を引きずって黙々と歩いた。  バスは一日二往復するだけで、次の便までは一時間以上もあるということだ。野上は人気《ひとけ》のない待合所のベンチに寝転んで、ほんの一時《いつとき》、まどろんだ。  野上たちを含めてわずか六人の客を乗せて、バスは出発した。街はずれで二人、中学校前で一人拾うと、しばらくは乗り降りの客もなくノンストップで走る。運転手はどの客とも顔馴染みで、ひとりひとり内容の異なった挨拶を交わしていた。中学校前で乗った初老の女は法事の帰りらしく、運転席のすぐ後ろに座ってその話を始めた。運転手は前方を向いたまま、適当に合い槌《づち》を打っている。かなり走って、バスは車庫のある広場へ乗り入れて、停まった。少し早く来すぎたために時間調整をするようだ。エンジンを切ると女の話し声が急に大きく聴こえた。気の滅入るような陰気くさい話を際限もなく喋りつづける。その内に運転手の方も話に身を入れ始めた。どうやら、焼き場のカマを覗《のぞ》いたという話題らしい。 「イカを焼くと、ピッピッ皮が剥《む》けるじゃろ、クルクルッと巻いてな。あれとそっくりやがな。可哀相でなあ、人間、死んでしもうたらしまいや、そう思うたで……」  笑いもせずに喋っている。女の方もまじめくさった顔で頷き、しまいに数珠《じゆず》を持った掌を合わせて、ぶつぶつと祈った。運転手は威勢よくエンジンをふかし、ハンドルを切った。  そこからは谷川沿いに急坂が続いた。 「まもなく王貫峠にかかるはずです」  石川は前方の景色を透かし見るようにして言った。この同じ道を八百年前、後鳥羽法皇が送られて行ったということが、野上には信じられない気がした。つい最近、正法寺美也子が通った事実さえ不確かなことのように思えるのだ。「死んでしもうたら、しまいや」という運転手の言葉が心にひっかかる。ひとりの人間が死ぬということは、その人物の持っている�情報�が確実に失われることだ。美也子の不可解な行動の謎は、彼女の死によって永遠に闇《やみ》の中に閉ざされてしまうのだろうか。 「広島県に入りましたよ」  石川が弾んだ声で言った。根っから郷土愛の強い男らしい。 「すると、ここが王貫峠というわけか」  野上は左右を見渡した。その割に平坦で、峠というより高原と称《よ》んだ方が相応《ふさわ》しい。ただひとつ県境を越えた実感は道路の悪さに顕《あら》われていた。細く舗装状態の悪い道がしばらく続き、それから下り坂になった。いつのまにか客は野上たちのほかはたった一人という有様で、揺れるバスを宥《なだ》めすかすようにハンドルを操作する運転手が気の毒だった。  終点の高野町には午後四時過ぎに着いた。降り際に運転手に美也子の写真を見せた。 「この顔に見憶えはないかね」 「ありますよ、確か一週間ばかり前でしたか、このバスに乗りました」 「この人に連れはなかったじゃろか」 「いや、ひとりでした。ほかのお客さんはみんな顔見知りじゃけん、それは間違いないです」  ついに収穫はなかった。正法寺美也子をつけ狙う謎の人物など、存在しなかったのだ。  高野町からまたバスに揺られ、三次へは六時半に帰着した。  翌朝は三次市内の旅館「環水楼」を訪ねた。市の北西のはずれ、屋関山《おぜきやま》公園の畔《ほと》りに建つ旅館で、皇族が泊まられたほどのところだから格式も高いに違いない。しかし、その割に主人もお内儀《かみ》も気さくな好人物で、刑事の来訪にもいやな顔を見せなかった。 「ほんま、お気の毒なことでしたの」  夫婦はまず哀悼の意を表した。 「あのお客さんは、現代《いまどき》の方にはめずらしいほどきちんとした方で、わたしらにも丁寧な言葉を使いなさったですよ」 「それじゃ、いろいろ話をしたのですか」 「いいえ、おとなしい方でしたけん、いらんお喋りはしませんでしたがの」 「どんなことを言っとったか、何か憶えてませんか」 「そうですねえ、特別に変わったことを話したわけではありませんが……」  お内儀は少し思案して、「図書館がないかって言うとられましたけどが」 「図書館?」 「ええ、図書館と、それに本屋さんの場所も訊きよりました」  仁多町でも同じようなことを聴かされた。 「それで、場所を教えたんですか」 「ええ、すぐ近くですけん、お教えしましたが」  確かにここから市立図書館はつい目と鼻の先である。野上たちは主人夫婦に礼を言って、真直ぐ図書館へ向かった。  あいにく、図書館は夏休み中の宿題を抱えた中・高校生でやや混雑ぎみであった。それでもどうにか貸出係のひとりを掴まえて手帳を示すと、「ああ、あの、三次駅で殺された女の人のことでしょう」と切り出されて面くらった。 「知ってるんですか」 「ええ、僕が応対しましたから」 「じゃあ、こちらへ来ていたんですね」 「そうですよ」 「何しに来たんでしょう」 「何しにって……、ウチは図書館ですから……」  係員は呆れ顔になった。 「いや、つまり、何の本を見に来たのかということです」 「ああ、それでしたら、確か、歴史関係の本を探してましたよ。なんでも、後鳥羽法皇の伝説が知りたいとか言って」 「後鳥羽法皇……」  野上は石川と顔を見合わせた。(またしても——)という想いが通いあった。 「それで、その本はあったのですか」 「ええ、まああるにはあったのですが、あまり満足はされなかったようでした」 「ちょっと見せてくれませんか」  係員は奥へ引っ込んで、じきに大きな書物を抱えて現われた。 「これなんですがね」  タテが四〇センチ、ヨコが三〇センチ以上はあろうかという大判の書籍だ。ケース入りで、厚い表紙をつけた本が二冊入っている。金ピカの背文字は「広島」とあった。分冊はそれぞれ「歴史と文化」「物産と経済」と主題《テーマ》が示されている。広島県が編纂《へんさん》、発行した限定保存版の�郷土総覧�といったようなものらしい。 「この本のここに後鳥羽伝説の記述が載っているんです」  係員は「歴史と文化」の方を開き、「比婆《ひば》郡」という項目を拾い出した。なるほど、そこには確かに「後鳥羽法皇」の名が見られる。しかし分量ということになると、少なすぎるように思えた。比婆郡高野町周辺には後鳥羽法皇遷幸にまつわる史蹟と伝えられるものが散在し、後鳥羽伝説の拠りどころとなっている、といったような記述が簡略に掲載されてあるだけだ。これでは美也子が物足りなさを感じたとしても当然かもしれないし、門外漢である野上や石川にとってはチンプンカンプンだ。 「後鳥羽伝説というのは、いったいどういう内容なんですかね」 「さあ、僕もようは知らんのです」  若い係員は頭を掻《か》いた。 「どなたか知っとられる方はいませんか」 「世良さんなら知ってるかもしれんです。こちらでお待ちください。呼んできますから」  係員は二人の刑事を応接室へ案内した。  世良というのは事務局の主幹を務める中老の男で、いかにも学者然とした容姿の持ち主だった。度の強い眼鏡の奥から野上を見て、 「後鳥羽伝説の何が知りたいのですかな」  嗄《しわが》れた声で言った。「何が」と言われても史実のことは一から聴かないことにはさっぱり理解できない。 「まずその、後鳥羽法皇そのものがよく解らないんですが」  恥をしのんで野上が言うと、世良は別に軽蔑《けいべつ》した様子もなく、 「それでは歴史上の基礎的なことからお話ししましょう」  文化講座で教えるような調子で解説を始めた。  後鳥羽天皇(一一八〇—一二三九)は歴代天皇の中でも特に英明の君であったと言われる。第八十二代天皇として後白河法皇の死後は親政を行なうとともに、一一九八年に譲位したのちも、土御門《つちみかど》、順徳《じゆんとく》、仲恭《ちゆうきよう》の三代二十四年にわたって院政を執った。鎌倉幕府に対抗して宮中の武力の養成につとめ、将軍源実朝の暗殺など、幕府が混乱している事態を見て倒幕の院宣《いんぜん》を発した。しかし幕府は倒れず、かえって京都の反幕勢力が一掃される結果を招く。幕府は仲恭天皇を廃し後堀河天皇を即位させ、土御門上皇を土佐へ、順徳上皇を佐渡へ、そして後鳥羽法皇は出家の上、隠岐へ配流された。これが「承久の変」とよばれる政変で、これ以後明治維新に至るまで、わが国政治の中枢を幕府が掌握する政治形態を定着させた、画期的な事件であった。 「ところで、その承久の変のあと、後鳥羽法皇が都《みやこ》から隠岐へ流された道順《ルート》ですがね」  と、世良は続けた。 「歴史書では大坂から海路、姫路付近に渡り、播磨《はりま》の国を通り、船坂《ふなさか》峠を越えて備前の国——つまり岡山県に入り、津山市の近くの院庄を通って、美作《みまさか》、そして伯耆《ほうき》へと抜けて行ったことになっています」  応接室の壁には中国地方の地図が掲示されている。その前に立って、世良は学校の教師よろしく地名を諳《そら》んじ、指先で遷幸のルートを辿った。 「この道順は、後年、後醍醐《ごだいご》天皇が北条高時によって隠岐へ流されたのと、まったく同じルートなのです。ところがここに異説がありまして、鎌倉幕府は、後鳥羽法皇の人気を惧《おそ》れ、途中で地方の豪族などの手によって奪回されることを警戒して、そのルートにはニセモノを通し、本物の法皇は別のルートによって隠岐へ送ったというのです」 「なるほど、それが�伝説�なのですね」 「そうです。しかし単に伝説というには、それを裏付ける史蹟があちこちにありましてね、私自身、学生の頃から後鳥羽伝説の研究をしてきましたが、調べれば調べるほど興味が湧いてきて、むしろこの説の方が正しいと信じる気にさえなりましたよ」 「ところで、その問題の伝説のルートというのを教えてください」 「ルートはやはり最初は海路をとり、一気にここまできました」  世良の指は瀬戸内海を走って、停まった。 「上陸地点は現在の尾道から三原《みはら》にかけてのどこかということです。それから北へ向かい、御調《みつぎ》町、双三《ふたみ》郡の吉舎、庄原《きさしようばら》市付近を通って高野町へ入り、そこでひと冬を過ごしてから、王貫峠を越えて出雲へ抜けたというのです。どうです、天皇の事蹟に相応《ふさわ》しい地名が多いと思いませんか。このほかにも、馬洗《ばせん》川、皇渡《おうわたり》、仮屋谷《かりやだに》、皇宇根《おううね》、仁賀《にか》などの地名が遺《のこ》っており、そして王貫峠から出雲側へ山を下りたところが仁多、というわけです」 「なるほど、そして仁多から松江へ向かったというわけですか」 「いや、それがですね。どういうわけか、仁多から先には後鳥羽伝説というのがまったく存在しないのですよ。つまり仁多町がこの壮大なロマンの終焉《しゆうえん》の地、というわけですね」  世良は気持ちよさそうに話を終えた。  少しの時間、沈黙が漂った。八百年近い過去へ野上は想いを馳せていた。苦手で無縁だと思い込んでいた歴史という学問と、ひょんなところで関わりあうことになったが、�歴史�がこんなにも興味ある対象であるとはついぞ思ってもみなかった。なんだか、目を閉じると、三次盆地の野末をゆく後鳥羽法皇の一行が想い描けそうな気分になってくるのだった。     2  旧盆を中心に、京阪神や東京方面からの帰省者、それに観光客などで、三次の街は急に賑《にぎ》わい始めた。市の北側を流れる馬洗川の鵜飼は東の長良川とならび古くから知られている。そこで獲れる鮎《あゆ》は無論だが、三次盆地周辺の川はどんなささやかな小川にも鯉《こい》がふんだんにいて、泥臭さのない鯉料理が自慢だ。若者には少しもの足りないが、しっとりと鄙《ひな》びた夏休みを過ごそうと希《ねが》う人びとにとっては恰好のアナ場なのかもしれない。  三次駅殺人事件の捜査は街の喧騒《けんそう》にまぎれたように、影が薄くなっていった。当初、取材に熱心だった地元新聞も、観光協会に遠慮するのか、事件の記事はさっぱり掲載しなくなった。殺されたのが土地の人間ではないということも、人びとの関心の対象になりにくかったに違いない。それに、甲子園で高校野球がたけなわだ。死んだ者やその関係者たちの思惑などとお関《かま》いなしに、世の中は急《せわ》しげにどんどん動き、流れてゆく。  野上と石川がいささか浮世ばなれしたような調査を進めているのとは対照的に、第一、第二のプロジェクトチームはそれぞれの目標に向かって精力的に動いていた。もっともそれが実りある結果をもたらすかどうかということになると、かなり悲観的な見方が強いのも事実だ。問題の広島行列車の乗客の中から容疑者を特定するという作業は、決して生易しいものではないのである。  事件当日の三次駅の乗車券発行枚数は九五五枚で、その内広島方面の分は六一二枚であった。  一六時台の発行券面は三十枚前後と見られ、その八割までが広島方面のものであった。この時間帯は定期券客は少なく、乗客の実数は五十名を上回ることはないと推定される。  一六時二二分発広島行は普通列車で、広島以遠の長距離旅客はあまり利用しない。約一時間後に出る急行に乗れば、広島には二十分程度の遅れで到着するのだから、何も好きこのんでノロノロ走る普通列車に揺られて行くことはないのだ。したがって、通常、三次からの乗客は九割方、途中駅で下車するものと考えて差し支えない。事実、この日もその列車への乗客で広島行の乗車券を持っていたのはわずか四名に過ぎないことを、改札係の駅員も確認している。それ以外の乗客はすべて途中駅で降りていることになる。  捜査陣はそれらの乗客のすべてをリストアップしようとしている。こんなことは大都会の駅では到底考えられない作業だが、ローカル都市の三次駅あたりならまったく不可能というわけでもないのだ。現実に、当該列車への乗客の内、駅員と顔見知りの者が七名いたし、その七名を手がかりにさらに五名の乗客の身許が割り出された。しかも、そこまでは捜査開始後、わずか丸一日の成果なのである。  こうした作業を進めていく過程で、事件の直前、跨線橋の上で正法寺美也子を目撃したという人びとがつぎつぎに発見された。美也子が乗ってきた福塩線の乗客はもちろん、その後に到着した芸備線広島行列車の乗降客も、ほとんどの者が美也子の存在を記憶していた。それらの人びとの証言を総合すると、美也子の行動は次のようなものであったらしい。  彼女は列車から降りると、すぐに跨線橋の階段を上り、跨線橋の中央辺りで立ち停まった。旅行バッグを下に置き、少し俯《うつむ》き加減の姿勢で、時折、時計を見ながら立っていた——というのだ。それは乗り換え列車の時間を待っているようでもあり、人待ち顔というようなものでもあった。  これらの証言者はその後の調べで、いずれも事件と無関係であることが判明している。犯人はまだ発見されていない大多数の乗客の中に潜み、その所在は時間経過とともに不鮮明になってゆくだろう。 「時間との闘いだ!」  桐山警部は捜査会議の都度、そう言って捜査員を督励した。三次駅での乗客の割り出しに停滞の兆候が現われたと見るや、次は広島方向の各駅について、当該列車から降りたと思われる乗客の洗い出しを指示した。小駅になればなるほど、利用客と駅員の親密度は強いから、この方法によってもつぎつぎに乗客が割り出されていった。  また、別の捜査員には当日発行の乗車券を収集させている。これは駅員などと顔見知りでない乗客に対する手掛かりを保持《キープ》すると同時に、無人駅対策でもある。三次—広島間には、上川立《かみかわたち》、上三田《かみみた》、白木山《しらきやま》、上深川《かみふかわ》、中深川、玖村、戸坂《へさか》という七つの無人駅があり、それぞれの駅の券面の回収は隣接する、甲立《こうたち》、志和地《しわち》、中三田、狩留家《かるが》、下深川、安芸矢口《あきやぐち》、矢賀の各駅駅長が行なうことになっている。殺害犯人はこれらの無人駅から逃走した公算が強いだけに、券面は一刻も早く収集し、指紋の確保に努めなければならないのだ。  一方、こうして割り出された乗客に対して、個別に聞き込み捜査が進められた。事件当時の当人の行動はどうだったか、それを証明する第三者の証言や事実の確認は可能か、また、他に挙動不審者がいなかったかどうか、とくに発車まぎわになって乗ってきた人物に記憶はないか、等等、綿密な聴取がなされている。  捜査員の数にそれほど余裕がないだけに、これらの捜査は文字どおり夜を日についで行なわれた。  事情聴取に反応を見せた者の多くは、挙動不審者として�青いTシャツの男�を挙げている。案の定、北村義夫の行動はあまりにも鮮烈な印象を彼等に与えてしまっていた。北村に対する印象を払拭《ふつしよく》して、その他に——ということになると、彼等の記憶はすでに不鮮明になっている。無理矢理、記憶を呼び覚まさせ、「そう言えば、あの人がちょっとおかしかった……」と訊き出したところが、その相手の側も、「目付きの鋭い男がいた」と、その当人を意識していたという、笑えない喜劇さえあった。  しかし、そういう中から、おぼろげながら一つの人物像が浮かんできた。それは�挙動不審者�としてでなく、北村がドタドタと乗り込んでくる直前の乗客として記憶されていた。だから当然ながら、記憶は不鮮明であるし、目撃者の数も少ない。 「目立たない、平凡なサラリーマン風の男」  これがその人物像である。半袖《はんそで》の開襟シャツ姿で、大きな茶封筒を持っていたということは確かなようだ。年齢や人相に対する記憶は人によってマチマチで、三十歳前後という者もいれば四十歳ぐらいという者もいた。眼鏡はかけてなく、北村が駆け込んだのと同じ車輛《しやりよう》の隅っこの方の座席に終始、俯《うつむ》き気味に座っていたという。目撃者はすべて広島より六つ手前の中深川駅までの間に降りてしまっているので、その男がどこまで行ったかは分からないが、少なくともそれまでの各駅には降りていないことだけははっきりしている。  その人物が最も疑わしいと思われるキメ手は、乗客の二人が次のような証言を行なったためである。 「その人は、確か、その列車から降りてきて、跨線橋を上って行ったように思えるのですが…」  それが、ふたたび同じ列車に乗り込んできたらしいというのだ。ことによると見間違いかもしれないという程度の不確実なものだったが、もしそれが事実だとすると、ほぼ百パーセント、その男の犯行と断定できるだけに、捜査陣は緊張した。 「すると、犯人は三次以遠からやってきたという可能性が出てきたわけか」  桐山は顔を曇らせた。そうなってくると容疑者を割り出す対象の範囲はかなり広くなる。その列車の始発駅は岡山県の新見《にいみ》なのだ。新見以降だけでも駅の数は二十四、さらにその先からの乗り継ぎ客や、備後落合駅からの木次線の乗り換え客まで入れるとなると、捜査範囲は際限なく広がってくる。  ただし、目撃された�開襟シャツの男�が一度は三次駅で降りようとした事実は注目に値する。つまりその男は当初、三次駅で下車する予定で跨線橋を渡りかけ、そこで被害者を襲う気になった、と見ることができるからだ。だとすれば、男は三次行の乗車券を持っていたと考えられ、その後、どこで降りたにせよ、乗り越し分の料金を精算しているはずだし、かりに無人駅で降りたとしても、プラットホームで乗務員に目撃されていることになる。目標《ターゲツト》としてはかなり絞りやすい対象と言えよう。  だが、その�見知らぬ乗客�に対する捜査はそれ以上はなかなか進展しなかった。それらしい人物が終点の広島まで行ったらしいというところまではどうにか掴めたのだが、それ以後の足取りはプッツリ切れてしまう。問題の三次行乗車券なるものも、どこの駅にも回収されていないのだ。  捜査員は列車がやってきた新見方面の各駅に対して、しらみ潰しに聞き込みを続けていった。それはアテのない、気の遠くなるような難作業であった。     3  野上と石川は尾道の秀波荘旅館に出向いて、正法寺美也子の宿泊を確認した。ここでも美也子の�単独行�は証明された。美也子に何者かが接触した形跡はまったくない。旅館の話によると、美也子は八月八日の午後六時頃到着し、夕食を摂《と》って、そのまま外出することもなくテレビを見るなどして過ごしていた様子だという。出発は翌朝九時半。 「おとなしい、行儀のいいお客さんでした」というのが係の女中の評である。あまり話もせず、どこか旅の疲れがあるような感じだったとも言った。 「お発ちになる時、ご予定をお訊きしたら、ちょっと市内見物をして、お昼頃の新幹線で真直ぐ東京へお帰りというふうにおっしゃっておられました」  やはり三次へ戻る予定などはなかったらしい。いったいその彼女がなぜふたたび、三次へ現われたのだろう——。  美也子が乗った(と見られる)一一時〇〇分発の列車に乗り福山へ行く。福山駅は在来線が高架で、新幹線はさらにその上を走る。在来線と新幹線の乗り換えは、いったん一階フロアに降りて、それぞれのホームへ通じる階段(エスカレーター)を上ることになる。福塩線のホームは北側の端だ。 「この階段を下りるあいだに、彼女の行先が変わったということか……」 「何が彼女をそうさせたか、ですね」  二人の刑事は深刻に考え込みながら階段を下り、頭上の案内板に従って福塩線ホームへ向かった。駅の大時計は一一時二〇分を指していた。福塩線府中行列車の発車時刻まで三十三分の間がある。本来、乗る予定だった�ひかり138号�の発車時刻までは三十七分、刻々迫る乗車時刻を前に、美也子は何を考え、どのように行動していたのだろう——。  福塩線の短いホームの真ん中にあるベンチに腰を下ろして、野上と石川は黙りこくっていた。若くて陽気な石川でさえ物想わしげな様子になっている。美也子の行動を推察しようとすればするほど、こっちの気持ちまでがミステリアスな様相を呈してくるようだ。  折り返し列車が入ってきて、乗客がパラパラといった程度、ホームに降りた。乗り込む客もごく少ない。夏の日盛りだし、それに高校野球の真最中だ、よほどの用事があるか、刑事でもないかぎり人びとは動き回らないのだろう。ホームに出てきた駅員も、のんびりしたムードで水撒《みずま》きなどをしている。列車に乗る前に、野上は駅員に近づき写真を示して、事件当日、正法寺美也子を目撃しなかったかどうか訊いてみた。駅員はあっさり「知らない」と答えた。ほかに誰か目撃者がいたら、と野上は一応名刺を渡しておいた。  電車は駅員同様、気がなさそうなのんびりした走り方をして、小一時間かけて府中駅に着いた。ここでの足取りはすでに別の捜査員によって確認されている。美也子は三十分後に出る三次行列車に乗るまで、この駅のプラットホームに立っていたのだ。念のため、野上はもう一度、駅員に会って話を訊いたが、新しい発見は何もなかった。  足取り捜査はこれで一通り終わったことになる。 「いささか疲れましたね」  汗っかきの石川がしんどそうに言った。 「なんじゃい、いい若者がそんなこっちゃ困るやないか」  笑いながら言ったものの、野上も疲れていた。捜査が完全に空振りに終わったことが、疲労感に拍車をかける。 「|あっち《ヽヽヽ》の連中は犯人の影らしいものを掴んだそうじゃありませんか」  石川は羨《うらやま》しそうな言い方をした。 「やっぱり向こうが本筋ですよ。われわれのやっていることは屑拾《くずひろ》いみたいなもんです」  こんな風にズケズケ物が言えるのは若者の特権かもしれないが、パートナーとして、野上はあまり愉快ではなかった。悪気はないとしても、石川は心のどこかで自分とあの桐山警部とをひき較べて考えているのではあるまいか、という邪推さえ湧いてくる。それもこれも疲れのせいなのだろうか——。 「石川君、きみ、先に帰っていてくれや。僕はちょっと府中署へ寄って帰るから」 「府中署に何かあるのですか」 「いや、昔の同僚がいるんで、ご機嫌伺いかたがた、捜査協力など頼んでみるつもりだ」  それは嘘《うそ》ではないが、それよりも、野上は少しのあいだ孤《ひと》りになりたかった。  府中署には昔、西条署で平《ヒラ》刑事同士だった有泉という男が部長刑事を務めている。折よく在席していて、野上が訪ねるとすぐに立って、近くの喫茶店へ連れ込んだ。 「えらい難事件らしいの」  一別以来の挨拶が済むと、有泉は言った。三次駅殺人事件は、目下のところ広島県警が捜査中の諸事件の中のピカ一なのである。 「初動捜査に手抜かりがあったと聞いとるが」 「そげなこと、誰が言うとるんじゃ」 「本庁のエライさんがそう言いよったとか、ウチの署長が洩《も》らしとったが」 「ふうん……」  野上はすぐに桐山の顔を思い浮かべた。あのエリート警部のことだ、迷宮入りになるような場合を想定して、しっかり伏線を張っているとしても不思議はない。そう思いながら、しかし野上は、桐山のこととなると妙に神経質になり、悪意のある憶測をしたがる自分に気付いて、心の裡《うち》で苦笑した。これはまさしく�桐山コンプレックス�と言うべきものではないか——。 「ところで今日は何じゃね」 「いや、別に何ちゅうこともないが被害者《ガイシヤ》の足取り捜査の帰りなんじゃ。出雲から始まって、今日、尾道からここまで辿ってきて、これで終《しま》いじゃがの」 「そうか、そりゃご苦労なこっちゃ。それで何かめぼしい聞き込みはあったんか」 「何もなしじゃ、この事件はだいたい犯行の目的もはっきりせんのんじゃが、被害者《ガイシヤ》がなぜ三次へUターンしたのかなんちゅうことも見当がつかん。尾道の旅館を出た時は、確かに東京へ帰る、言うとったそうじゃ。誰かに誘われた、ということも考えられるが、府中駅で被害者《ガイシヤ》を見た駅員は、二人とも彼女は独りでおったと証言しとるし、他《ほか》には今のところ目撃者もおらんし、収穫《みやげ》はゼロ、ちゅうことじゃな」 「目撃者を探しとるんか」 「いや、そう積極的にちゅうわけではない。まあ、彼女に接触を図ったような人物——男じゃな——そういう者がいたという事実があるかどうか、それを知りたいんじゃが、どうやら、よほど魅力のない女性だったと見えて、悪い虫が近づいた気配もない」  野上は少し、不謹慎な笑い方をした。 「そうらしいなあ、相当なブスじゃ、言うとったけん」  有泉も調子を合わせた。 「誰がいな?」 「ん?……」 「その、ブスじゃ、言うたのは誰かね」 「ああ、昨日、ちょっと話に出たんじゃが、あれは富永いうたかな、そこの工業団地に大阪から出張してきとる人じゃが……、そうか、目撃者を探しとるんなら、会《お》うてみるか」 「そうやな、次の汽車まで時間はあるし、会うてゆくか」  有泉はパトカーを出してくれた。 「昨日、飯場の作業員同士で喧嘩《けんか》があって、止めに入った飲み屋のオヤジが怪我してな、そこの責任者が富永ちゅう人で、事情聴取をやったんじゃが、そん時、三次の事件の話が出た。被害者とは、福山から府中まで、向かい合いの席に座っとったらしい」  工業団地までの間、有泉は予備知識を与えてくれた。工業団地はすでにかなりの企業が建設を進めていて、ここかしこに飯場や事務所が建っている。そのひとつに、D—社府中工場の大きな立看板があった。�目撃者�の富永は四十代なかばの男だ。小柄だがキビキビした態度や話しっぷり、黒縁の眼鏡をかけた四角い顔は、よく外国のマンガなどに登場する日本商社マンの典型を見るような気がする。有泉の顔を見ると、愛想よく「昨日はどうもお世話さんでした」と腰を低くして挨拶した。 「三次で殺された女性でっしゃろ、確かに電車で一緒でした。いやあ、ニュースで見て、びっくりしましたなあ。いや見間違いいうことはありまへんで、亡くなられた方には申し訳ないが、なんしろちょっとした醜女《しこめ》でっしゃろ、じつになんとも印象的やったもんやさかい」  へへへ、と軽薄に笑う。同じ西日本だが、野上はどうも大阪の人間が苦手だ。端的に言えば、バイタリティが鼻につくのである。陽気さでは広島人も似たところがあるが、大阪人よりは諸事おっとりしている。抜け目なさという点では数段、かなうまい。この富永という男はまさに大阪人そのものといった感じで、油断がならない。 「その時ですが、その女性は独りでしたか」 「へえ、もちろん独りでしたよ、車内はガラガラに空いとりましたよって、誰ぞ同伴者でもおればすぐに分かりますさかいな」 「話しかけてきた人もいなかったですか」 「おりまへん」 「府中駅へ降りてからはどうでした、誰かに会った様子はなかったですか」 「ありまへんな。もっとも、私は先に降りて歩きだしましたさかい、プラットホームにいる彼女をチラッと見たきりでしたが、その時も、別に誰かを待っとるいう感じはしまへんでしたな」 「何か変わった様子は見えませんでしたか。たとえば人に追われているとか、心配事があるとかいうような」 「いいや、そんな様子はありませんでした。いたって平和な、どっちか言うたら、夢見る乙女いう感じでしたな」 「夢見る乙女?……」 「そうですねん、それであの顔でっしゃろ、それがおかしゅうて、記憶に残ってますねん。バッグの中から大事そうに書物を出しては、うっとりして……」 「書物?……」  野上はキッと顔を挙げた。 「書物を持っていたのですか」 「ええ、持ってました」 「それは何の本でした」 「さあ、そこまでは見えませんでしたが」 「雑誌ではないのですね」 「雑誌とちがいます。立派な——ちょっと古そうでしたが——書物でしたな」 「本の特徴は何かありませんか」 「そうですなあ、たしかグリーンぽい色の布張りで、かなり分厚い本でした。ようは分かりまへんが、小説本という感じではありませんでしたな」 「相当高価なもののようでしたか」 「さあ、どうでっしゃろ、そうも見えませんでしたが」 「それを読みながらうっとりしていたというと、詩集ではありませんか」 「いや、詩集とはちがいます。チラッと見えたページに文字が仰山ありましたさかいに」  言いながら、富永は怪訝《けげん》そうな顔をした。 「そやけど、その本、亡くなった女の人が持っとったのと違いますのか」  野上は一瞬、躊躇《ちゆうちよ》したが、「いや」とかぶりを振った。 「持っていなかったのです」 「そら、おかしゅうおまんな……」  富永は二人の刑事の顔を見較べるように、忙しく視線を動かした。 「それやったら、盗まれたんと違いますやろか」 「さあ、どうですかね、どこぞへ忘れてきたのかもしれないですし」 「しかし、あんなに大切そうにしてたもんを忘れるいうことはないと思いますがなあ。そら、彼女を殺した犯人が持って行きよったのと違いますか」 「まさか、そんな本のために殺人を犯すはずはないでしょう」  野上は笑って見せた。 「まあ、しかし、一応は調べてみますがね。また何かありましたらお尋ねしますよ」  立ち上がる刑事に、富永は不満そうな顔をした。 「野上《ガミ》さん、その本、怪しいんと違うか」  パトカーに乗り込むと、有泉は早速、言った。 「うん、僕もそう思う。あの時、列車に乗り遅れそうになった男が跨線橋の階段を駆け上ってきたんじゃ、それで、犯人が狼狽《あわ》てて手当たりしだいにそこにあった物を持ち去ったいうことはありうることだ」 「すると、これは強殺(強盗殺人)ちゅうわけじゃな」 「うん、そういうことになるな」  捜査本部は通り魔殺人と強盗殺人のどちらとも判定しかねている。そこへこの新事実が加われば、通り魔のセンは無視してかかることができるのだ。 「お蔭《かげ》さんで、いいお土産ができた」  野上は有泉に頭を下げた。有泉はパトカーで駅まで送って、「手柄、樹《た》ていや」と笑って手を振った。  三次署には午後五時過ぎに帰投した。捜査本部は閑散としていた。石川の姿も見えない。一番奥のデスクに桐山警部がひとり、捜査日誌の書き込みをしている姿があった。野上の方をチラッと見たが、すぐに下を向いて仕事を続けた。 「主任さん、報告を聴いていただけますか」 「うん、ちょっと待ってくれ」  待っているあいだに、石川が戻ってきた。 「あ、お帰んなさい。何か収穫はありましたか」 「ああ、ちょっとだけな。被害者《ガイシヤ》は殺される時、本を持っとったらしいんじゃ」 「ほう、すると……」  その時、桐山が「野上君」と呼んだ。 「待たせたな、報告を聴こうか」  野上は桐山の前に立って、府中での一件を少し意気込んだ調子で喋った。石川も野上の背後で耳を傾けている。それを意識したせいか、やや得意な気分があったかもしれない。ふと、桐山の不愉快そうな表情に気がつき、しまったと思いながら、野上は慌ててトーンを落とした。案の定、桐山の応対は冷淡そのものであった。 「すると、犯人は正法寺美也子を殺してその本を盗んだと思うのだね」 「そうです、したがって、この事件は単なる通り魔などではなく、強盗殺人事件であると考えます」  ふん、と桐山は鼻を鳴らした。 「殺人という重大犯罪の代償が、一冊の本というわけか」 「はあ」 「目の前に旅行バッグがあり、その中にはおそらく財布その他の貴重品が入っていただろうに。しかも指にはサファイアの指輪《リング》も見えているというのに、かね?」 「しかし、現実に盗まれていることは確かなのですから」 「どうして確かなどといえるのかね。府中駅から三次へ至るまでの間に紛失した可能性がないと、断言できるのかね」  野上は沈黙した。胸の内は煮えたぎっているが、反論する気力が萎《な》えた。 「あのねえ、もう少し冷静に対象を見なさいよ。それでないと、ダイヤモンドと石炭の価値判断もできなくなる」  それきり桐山は背を向けてしまった。野上は一礼して自席へ引き揚げてきた。石川は身を避けて野上を通した。顔を見たわけではないが、石川の表情に憐《あわ》れみの色が浮かんでいるのを感じてしまい、野上は惨めな、不貞腐った気分にのめり込んだ。 (おれは嫌われている——)と野上は思った。なぜそう思うのか説明はできないが、捜査プロジェクトの主力チームから外された時以来、そういう被害者意識のようなものが芽生えていたことは確かだ。それがここへきてはっきりした、と思った。今日の報告にしても、一顧にも値しないという態度で葬り去ることはないではないか。一応捜査会議にかけるなりして、各人の意見を聴くぐらいの対応があってしかるべきだ。まあ、確かに警部の言うように、愚にもつかない�発見�であるのかもしれないが、捜査員の努力に報いるにはその程度の手続きを取ってくれてもよさそうなものだ。  このことがあったのを境に、野上の仕事に対する意欲は減退し鬱《うつ》状態とも言える精神状態に落ちこんでしまった。  三日後に有泉から連絡が入った。 「どうやった、あの本の発見で何ぞ新しい進展があったんかね」 「いや、あかん」  野上は周囲を気にして、短く答えた。その雰囲気は有泉に伝わったらしい。 「そうか、容《い》れられなんだか……。いや、例の富永氏から電話があって、お役に立ちましたか言うてきよったけん……。そうか、あかんかったか」 「すまんな、腑甲斐《ふがい》ないことで!」  気にするな、と言って有泉は電話を切ったが、野上はますます意気消沈した。  無為のままに日日が経過した。捜査は完全に手詰まり状態になっていた。捜査員は勤勉に動き回るのだが、これといった情報は入手できない。焦燥の色が濃くなる一方の捜査本部にあって、冷静な表情でいるのは桐山警部と野上巡査部長のふたりだけになった。もっとも野上の場合は�冷静�というのではなく、無関心さがそうさせているというのが真相だ。野上の気持ちは完全に捜査本部から離脱していると言ってよかった。  九月九日、朝刊の社会面に『発生以来一か月、迷宮入りか?——三次駅殺人事件——』と五段抜きで報じられた。  寝床の中でその記事に目を通しながら、野上はまるで他署の扱い事件でも眺めるような醒めた気持でいられた。  台所の方から味噌《みそ》汁の香りが漂ってくる。野上はモソモソと起き出した。この頃は食い物が旨《うま》いし、食も進んだ。奉職以来、こんなに落ち着いて食事ができるのは初めてのことであった。  居間のテレビを点《つ》けておいてから、ダイニングキッチンのテーブルの前に腰を据えた。残暑がここ二、三日急速に衰え、窓からは小気味よい朝の空気が流れ込んでくる。  テレビはニュースを流し始めた。政界のニュースが一本入って、アナウンサーの語調が少し変わった。 「けさ早く、広島県庄原市の郊外で他殺によるものと見られる男の人の死体が発見されました。けさ五時四〇分頃、庄原市|七塚原《ななつかはら》の種畜場内の建物の中で中年の男の人が死んでいるのを、牛を放牧するため現場を通りかかった、近くに住む農業・小林太一さん(三十九歳)が見つけ警察に届け出ました。庄原警察署で調べたところ、男の人は背後から刃物で左胸をひと突きされており、おそらく傷は心臓に達するものと思われ、即死ではなかったかと警察では見ています。その後の調べで、この男の人は持っていた名刺などから、大阪に本社のあるD—社の社員、富永隆夫さん四十七歳と分かり……」  野上は飲みかけた味噌汁を碗《わん》の中へ吐き出した。テレビの中の小さな写真が、まともにこっちを凝視《みつめ》ていた。  第三章 消えた本     1  七塚原は庄原市の南西部にある高原地帯である。丈の高いポプラ並木や放牧場、サイロなどがあり、ちょっと北海道を想わせるような美しい風景が展《ひろ》がっている。七塚原青年の家を中心とする夏季キャンプもさかんで、つい一週間前までは学生たちのさんざめきが一日中絶えなかった。  種畜場は高原のほぼ中央にある。古い木造の建物がいくつか建っているが、日中でも勤務する人の数は少なく、一部はほとんど使用されていない。  事件の発見者である小林太一は近くの酪農家で、この朝、母牛と二頭の仔牛《こうし》を連れて放牧場へ向かっていた。家を出たのが午前五時三〇分|頃《ごろ》だから、現場にさしかかったのは五時四〇分頃ではないかと思われる。陽は上がっていなかったが、あたりはすでに明るくなっていた。種畜場の一角を通過しようとして小林は建物のドアが少し開いたままになっているのに気付いた。その建物は種畜場の中では最も古いもので、雨漏りなど傷みもひどく現在は物置にも使えないような状態になっている。小林は毎日のようにそこを通るが、そのドアが開いたままであるのを見た記憶がなかったので、少し気になってガラス戸の中を覗《のぞ》き込んだ。  死体は建物の中心の方向へつんのめるような形で倒れていた。足の先はドアからほんの数センチのところにあったから、おそらく犯人は富永がドアを入りきった瞬間、背後から刃物を突き刺したのであろう。  遺留品は何もなかった。また、足跡など犯人の痕跡《こんせき》を示すものも何ひとつ発見されなかった。七塚原周辺の道路は車がやっとすれ違える程度の幅だが、すべて完全舗装されている。道路を外れると軟弱な土質だが、道路から建物の入口までは砕石が敷きつめられ、足型が遺《のこ》る可能性はまったくない。そればかりか、犯人と富永は現場まで車できたものと考えられるにもかかわらず、建物前の道路には車の停止—発進を示すタイヤ痕《あと》が見当たらないのだ。そのあたりにまで、細心の注意を払っているとすると、かなり犯罪のテクニックに長《た》けた人物——殺しのプロ——といった犯人像が浮かびあがってくる。  警察は直ちに庄原署内に捜査本部を設け、大がかりな初期捜査を開始した。  犯行時刻は未明の零時から二時頃までのあいだと見られ、その時刻を中心に不審な車や人間を見た者はいないか、というところから捜査が進められた。しかし七塚原周辺は人家も少なく、夜間は歩行者はもちろん、車の往来も全く途絶えてしまう。かなりの捜査員を動員しての聞き込み捜査だったが、いっこうに収穫はなかった。  別班は府中のD‐社工場建設現場へ向かった。富永隆夫が工場建設の推進者であるという点から、現地住民などとのあいだにトラブルがなかったか、あるいは長期滞在中に私怨《しえん》を持たれるようなことがなかったかを調べる一方、事件当日の富永の行動を洗った。その結果、富永は九月八日夕刻までは建設事務所にいたことが分かった。午後五時半頃「ちょっと用事があるので」と言い置いて事務所を出ている。目的の場所は言わなかったが、その後の足取り調査の結果、一八時〇四分発の三次行列車に富永らしい人物が乗るのを見たと、府中駅の二人の駅員が証言した。その列車は三次に二〇時一一分着である。だが三次駅の駅員には富永を目撃したと断言する者はいなかった。たまたまその日は、芸備線上り三次止まり一八時一三分着の列車もほとんど同時に入線したために、通勤通学客でいっときプラットホームも改札口もごった返した。サラリーマン風の客も多く、その中で富永の顔を識別し記憶することは難しかったろう。しかし、途中の駅で降りた気配のないことから、ともかくも富永は三次駅まで来たことは間違いなく、問題はその後、別の列車に乗り継いで行ったものか、あるいは駅を出て三次市内に入ったかということである。  庄原署の捜査本部からは捜査員が派遣されてくるのとともに、三次署に対して協力方の要請が行なわれた。もっとも、協力と言ったところで三次署そのものが正法寺美也子の事件に手を焼いている状態なのだから、とてものこと他署の面倒を見てやるどころの騒ぎではない。その点は庄原署の側でも承知しているので、�要請�は単なる儀礼的な意味あいの濃いものと解釈するべきかもしれない。「警察一体」などと言っても、それはそれ、他署の縄張りに入る際には一応の挨拶《あいさつ》をしておこうというのは、ちょっとヤクザ社会の仁義に通じるところがある。 �七塚原殺人事件捜査本部�のこうした動きを、野上はじっと息をひそめるようにして見守っていた。府中における捜査状況については、府中署の有泉から逐一報告を受けている。有泉は庄原署の連中にも、富永が正法寺美也子の目撃者であったことを話したが、まったく一顧の値打ちもないかのように無視されたと憤慨していた。しかし、富永と美也子に関連があるなどと考える方がおかしいのかもしれない。そんなことを言っていた日《ひ》には、美也子を目撃した何十人、何百人の全員を関連づける必要が生じてくる。この二人だけが、三次と庄原という隣接する場所であいついで殺されたのは単なる偶然にすぎないと考える方が、よほど|まっとう《ヽヽヽヽ》に違いない。  だが野上はいぜんとして、美也子が持っていたというグリーンの表紙の書物に拘泥していた。 (いったい、その本はどこへ消えてしまったのか——)という疑問が、あとからあとから波のように寄せてくる。野上はすでに桐山警部たちに知れぬよう、三次駅の遺失物係に問い合わせているが、そのような拾得物があったという情報は、まだない。  もうひとつの疑問は、その書物なるものはどのような類《たぐ》いのものなのか——ということだ。それについても郵便で美也子の母親|宛《あて》に問い合わせを発してあった。ご令嬢が旅行中に所持されていた緑色の表紙の、かなり分厚い書物というのは何だったのでしょうか、という内容のものである。桐山警部に知れないよう同封の返信用封筒には自宅の住所を書き、速達料金の切手を貼《は》っておいたが、返事はかなり遅れ、九月十六日に到着した。その手紙の要点は次のようなものである。  お問い合わせの�書物�については、あれこれ思いめぐらしましたが、まったく思い当たるものがありません。美也子が旅行に出発する際、バッグに詰める物を二人で相談などいたしましたが、なるべく少なくということで、小さなノートを別にすれば書籍類は持参しなかったはずです。もしそういう書物を所持していたことが事実であるなら、おそらく旅の途中で買い求めたものでありましょう。  読み終わって、野上は失望した。かすかな手がかりさえも、シャボン玉のようにはじけて消えた。  三次の事件はそろそろ迷宮入りの噂《うわさ》が囁《ささや》かれはじめ、捜査本部縮小の兆《きざ》しが見えてきた。  捜査主任の桐山は報道陣に対してはっきりと初動捜査の不備をにおわせ始めた。確かに、事件直後、芸備線列車の乗客をチェックしなかったのは致命的なミスであり、捜査の難航はすべてそこに原因があることは否定できない。そしてそれは桐山が着任する前の出来事なのだ。  幸か不幸か、世間の耳目は庄原で発生した新しい殺人事件の方に関心が移っている。幕引きの条件はほぼ整っていると言ってよかった。これ以上手詰まり状態が続けば、桐山はあっさり捜査本部を縮小し、場合によっては解散——一部捜査員による継続捜査、という方針を出すかもしれない。野上はそのことを惧《おそ》れ、焦った。捜査本部が解散されるということはとりもなおさず捜査費の出所が絶たれることを意味する。  野上は勇を鼓して桐山の前に立った。 「一度、東京へ出張させていただきたいのですが」 「東京?……」  桐山は冷たい目で野上を見た。 「何のために」 「はあ、被害者の家族にもう一度だけ事情聴取をやってみたいのです」 「ふうん……」  桐山はしばらく考えてから、存外あっさりと「いいでしょう」と言った。 「どういう思惑があるのか知らないが、それなりに期するところがあるのだろうからね」  どうせ何もあるまいが——という意味をひっくり返しに言ったように野上は感じたが、ともかく許可さえ出ればよしとしなければならない。  九月二十日、三次を一番列車で発《た》って、東京には午後二時前に着いた。正法寺家は東大に近い、文京区西片の邸宅街にあった。古い洋館で、門を入り玄関の呼び鈴を押すとドアが内側にごく細目に開いた。チェーンが付いていてそれ以上は開かない隙間《すきま》からお手伝いらしい女が用件を尋ねた。  長いこと待たされてから、野上はお手伝いの先導で応接室に通された。調度類はすべて古いものずくめ。壁には大礼服を着た老人の肖像画が大仰な額縁に納まっている。いかにも由緒ありげな雰囲気が漂い、そういうものに無縁だった野上は理由のない圧迫感を味わった。  美也子の母親は、野上が茶を一杯飲み干す頃になって現われた。遠来の客を迎えるためにいささかの身繕いをした、という感じが伝わってきた。小柄な躯《からだ》を皮張りの大きな肘掛《アーム》椅子《チエア》にあずけると、いかにも頼りなげに見え、それでいてある種の風格のようなものを備えた老婦人であった。  野上はお悔みを言い、すぐに用件を切り出した。 「先日、お手紙をいただいた例の書物の件なのですが、確かに美也子さんが旅行の途中のどこかで買い求めたものであることは間違いないと考えられます。それで、旅行中、毎日美也子さんから連絡が入ったということですので、その時の話の様子で、それらしい感じが窺《うかが》えなかったものかどうか、そこをぜひ思い出していただきたいのです」 「そのことですけれど、あとで思い返しますと、あの娘《こ》がそのご本を持っていたとは考えられません。あなた様のご様子から推察いたしますと、何かたいへん貴重なご本のようでございますし、もしそういうご本が手に入ったということでしたら、あの娘は何を措《お》いても報告するはずでございます。それが、お土産を買わないことは申して、そのご本のことをおくびにも出さないのですから、やはり書物は買わなかったとしか考えられません」 「しかし、現実には電車の中で美也子さんがその書物を持っているところを目撃した人がいるのですから……」  言いながら、野上は気がついた。 「そうか、美也子さんから最後に電話があったのは、八月八日、つまり尾道に泊まったその晩ですね」 「さようでございます」 「では八月九日、帰京する当日にその本を買ったのかもしれませんね」 「はあ、それでしたら考えられますわね」  その書物にどういう意味があるのかはともかく、出所だけは掴《つか》めそうだ。それにしても、ふつうのOLが旅の途中で気軽に買える程度の本に、殺人を犯してまで奪い取るような値打ちがあるものだろうか——。 「ところで、八年前に事故に遭《あ》われた時、美也子さんの所持品はみつかったのでしょうか」 「はい、それはございました」 「その中に、今度の旅行の目的となった、後鳥羽法皇に関する研究ノートのようなものはありませんでしたか」 「さあ、あったかもしれませんが、なにぶん土砂に塗《まみ》れた物ばかりでございましたから、拾いましたのは旅行バッグとその中身だけでございました。それもみんな水浸しになっておりまして、結局は全部現地で処分いたしました」 「そうですか……」 「でも、それが何か今度の事件に関係がございますのでしょうか」 「いえ、そういうわけではありません。正直なところ今回の事件はほとんどと言っていいほど手掛かりがないのです。その中で、美也子さんが帰京の途中、とつぜん方向を変えて三次へ引き返したという事実は、はっきり謎《なぞ》の行動だと考えていいでしょう。そして、この行動が、八年前の研究旅行に何らかの関係があるのではないかと、自分は思うのです。そういうわけで、八年前の旅行の記録があれば、ひょっとするとそこから手がかりになるようなものを発見することができるかもしれないと考えまして……」 「それでしたら、一度、浅見様のお宅へいらしたらいかがでしょう」 「浅見、さん?」 「ほら、美也子とご一緒に旅行されて、亡くなられた祐子さんのお宅ですわ」 「なるほど、ぜひそうさせていただきます」  野上は浅見家の住所と道順を聞き、手帳に控えた。 「ところで、美也子さんの記憶喪失症のことですが、一度、お医者さんに会って記憶喪失とはどういうものなのかお訊《き》きしたいと思います。恐縮ですが、お医者さんのお名前と住所を教えてください」 「はい、お名前は田坂峯夫先生とおっしゃいまして、週に何度かは大学病院の方へいらっしゃいますが、ふだんはついこの先のご自宅でお仕事をなさっておいでのようです。もしなんでしたら、ご在宅かどうか、おうかがいしてさしあげましょうか」 「はあ、ぜひお願いします」  田坂医師は折よく在宅とのことであった。 「あなた様がお訪ねすることをお伝えいたしておきました」 「ありがとうございます」  野上は礼を言って、正法寺家を辞去した。  田坂家は白亜の瀟洒《しようしや》な邸宅で、一階の一部を外来者のために使っている。「医者」というイメージを抱いて訪問した野上は、薬品臭もなく、医療器具も何も見当たらない室内を奇異に思いながら見渡した。  田坂は五十代半ばの、眼鏡をかけたいかにも学者然とした人物で、終始微笑を絶やさない温和な態度を示していた。 「何か正法寺美也子さんのことでお訊きになりたいとか……」 「はい、美也子さんが殺された事件の捜査に当たっている者ですが、美也子さんの旅行の動機に、記憶喪失を回復させるという目的があったように聴いております。また、そのことをお奨めになったのは先生だそうですね」 「ええ、私がお奨めしました」 「じつは、その記憶喪失というのが私にはよく分かりません。もしかすると、今度の事件はその記憶喪失と何か関係があるかもしれないので、いったいそれはどのようなものなのかを教えていただきたいのです」 「さあ、どうでしょうか。事件と美也子さんの病気に相関関係があるとは思えませんが」 「そうかもしれません。しかし美也子さんが帰京のスケジュールを急に変更して三次へUターンした行動は、どう考えても普通ではなく、何かに憑《つ》かれたもののような気がするのです」 「いや、記憶喪失はいわゆる精神病とは違いますよ」 「ええ、ですから、そういうことも含めて、教えていただければ、美也子さんの行動の謎も解くことができると思うのです」  田坂はしばらく考えてから「分かりました」と言った。 「ひと口に記憶喪失症と言っても、原因や症状によってじつにさまざまです。たとえば老人ボケといわれるのも一種の記憶喪失ですし、『ど忘れ』などもそのひとつでしょう。また、脳震盪《のうしんとう》の際、一時的に記憶が喪われることもあります。総体的に言えば、記憶されていながら、それが思い出せないという場合が『記憶喪失』であって、それ以前に�記憶されない�場合の『痴呆《ちほう》』と区別されております。  記憶とは、記銘《インプツト》、保持《ホールド》、再生《アウトプツト》の三つの作用から成り立つところから、よくコンピューターと比較されますが、ここで問題にしているのは再生の障害に関することですから、それに絞ってお話ししましょう。  記憶障害は打撲や脳出血といった、外的物理的な力が働いて起きる場合と、もうひとつ、内面的な要因によって自己発生的に起こる場合とがあります。人間の脳には間断なく無数の情報がインプットされてきますが、その中から自分が必要とする情報とそうでないものとを選択し、必要なものだけを保持しようとしています。たとえば、不快な思い出は忘れてしまおうとする作用が働き、実際に、その記憶の方向に再生端子が向かわないように、無意識の裡《うち》にコントロールしているものなのです。しかしじつはその不快な出来事は完全に忘れ去られたものではなく、単にその記憶が意識下に眠っているに過ぎませんから、たとえばその出来事に関係した相手や物を見れば、即座に記憶は再生され、いやな思いをすることになるでしょう。このように、一時的、意図的に記憶が眠らされているものは『記憶喪失』とは称《よ》びません。記憶喪失とは、本人自身がその記憶を必要としていながら、その所在を発見できない状態だと考えていただけばいいでしょう。ところが、その原因となったものが、じつは本人の強い�過去否定�の意識なのですから、問題は複雑です。われわれの仲間には、記憶喪失症を精神的自殺と呼ぶ学者もいるほどなのです」 「精神的自殺……」 「そうです。たとえば優秀で勤勉なサラリーマンがとつぜん蒸発してしまいますね。いくら調べても理由らしいものは見当たらない。しかし、彼にしてみれば、毎日の自己抑制が限界に達していたのです。このように、生活環境に耐えられなくなれば�蒸発�という方法がありますが、脳の働きにはそれができません。どこへ行っても意識はついて回ります。もしその忍耐が限界を超えたならどうするか——記憶を閉鎖するより仕方がありません。それがいわゆる記憶喪失症なのです。  ところで美也子さんの場合はどうかといえば、原因は外的要因と内的要因の両方にあると思います。土砂崩れ事故で頭部に打撲を受けたショックと、内因的な記憶再生拒否が同時に彼女を襲った、と私は結論づけました。家柄もよく性格も素直な模範的な患者さんでしたから、私の指導でどんどん記憶を回復され、日常生活にはまったく支障がなくなりましたが、ただ一個所、大学時代のことに触れると異常な精神反応を示すのです。とくに親しくしていた友人のことや、大学での研究の記憶に関する再生拒否は重症で、催眠状態にありながら、膏汗《あぶらあせ》を流すほどでした。そこで私は少し荒療治かと思いましたが、一度その親友と旅行したルートを歩いてみたらどうかとお奨めしたのです。そこの風景や、研究対象であった史蹟を見たりすることによって、自ら積極的に心の闇《やみ》を切り拓くべきだと言うと、美也子さんも素直に応じてくれました」 「なるほど、たいへんよく理解できました」  野上は頭を下げた。「ところで、先生とそういう話をしている時に、美也子さんは何か本のことを言ってませんでしたか」 「本?」 「ええ、緑色の分厚い本なのですが」 「ああ、そういえば、緑色かどうか知りませんが、たったひとつ、懐かしい本の記憶があると聴いたことがあります。みんな忘れてしまった中で、その本の部分だけが、ポツンと光が当たったように懐かしいのだと言っておられたようですが……」 「それは何の本か、お判りになりませんか」 「いいえ。知りません。美也子さん自身、そこまでははっきり思い出せなかったようですよ」 「もうひとつお訊きしますが、美也子さんが記憶を喪失したのは、何かよほど不快な出来事があったためと考えていいのでしょうか」 「まあ、確定的なことは言えませんが、一般論としては、その可能性が大きいと思いますよ」  その不快な出来事とはいったい何だったのだろう——。それと、今回の事件のあいだには関連があるのか。緑色の本とは何か。その行方は?——。  田坂家を出て表通りへ向かいながら、野上は一歩ごとに問いかけてみた。とくに緑色の本のことが、彼の意識の裡に占めるスペースを急速に拡げている。なぜそんなものに関心がいくのか分からない。まさかその本を盗む目的で殺人まで犯す道理はないと思いながら、妙に拘泥する気持が野上を捉《とら》えて放さないのだ。  浅見家のある北区西ケ原へは、東大前からバスで一直線であった。東京にはめずらしく、あまり大きなビルのない古い住宅街だ。バスを降りて表通りのパン屋で訊くと、すぐに分かった。長い板塀に囲まれた瓦葺《かわらぶ》きの宏壮《こうそう》な二階家である。門脇《もんわき》の呼び鈴を押すと玄関から若いお手伝いが出てきて「どちら様でしょうか」と聞いた。広島県三次警察署巡査部長の肩書のある名刺を渡すと、驚いた様子で中へ消え、しばらくすると中年の女を伴って現われた。若い方の女が門扉を開け、中年の方が「どうぞ」と、敷石の上を先に立って案内した。感じからいうと、こちらの方もお手伝いらしい。  玄関に入ると、広い式台の向こうに美也子の母親より年長らしい婦人がきちんと正座していて、野上に一揖《いちゆう》した。 「どのようなご用件でしょうか」  硬い口調である。細い金縁の眼鏡の奥から鋭い眸《め》が睨《にら》んでいた。 「じつは、八年前の仁多町の事故のことでちょっとお尋ねしたいことがあって参りました」 「はあ、さようですか。けれどもあれは島根県でございましたでしょ。それをどうしてあなたが?」 「それは、今度、正法寺美也子さんが殺された事件に関連しまして……」 「ちょっとお待ちになって。確かに美也子さんはご災難でございましたが、それは手前どもと関係のないことでございましょう。警察の方にお見えいただかなければならないようなことはないと存じますが」 「しかし、今度の事件はですね、八年前の事故とつながっていると考えることもできるわけで……」 「おそれいりますが、そのお話はおやめになっていただきます。あのいやな事故のことは一刻も早く忘れようといたしておるのでございますよ。もちろんお話し申しあげるようなことは何もございません」  終始、高飛車な姿勢で取り付く島もない。  その時、玄関脇の階段を三十二、三歳の男が降りてきた。長身で育ちの良さそうな二枚目だが、服装にも態度にもまるで気取りがない。 「母さん、お話ししてあげたら?」  青年は笑いながら言った。 「広島から見えたのでしょう、お気の毒じゃありませんか」 「光彦さん、あなたはお黙りなさい」 「あはは、怕《こわ》い怕い……」  光彦と呼ばれた青年は、スポーツシューズをつっかけると、軽い身のこなしで玄関を出て行った。母親は野上に向き直り、 「とにかくお引き取りください。これ以上お訊きになりたいことがおありでしたら、息子の方へ直接お出掛けくださいましな」 「あの、息子さんとおっしゃいますと、いまの方《かた》で?……」 「あれは次男の方でございます、申し上げておりますのは長男!」  言葉は丁寧だが、叱《しか》りつけるような口調で言う。 「ご長男はどちらに……」 「警察庁刑事局長をいたしております」  勝ち誇ったように躯《からだ》を反らせた。野上はほうほうの態で退散せざるをえなかった。刑事局長と言えば、警察の位でいうと警視長か、悪くすると警視監——、広島県警本部長よりランクが上の階級である。田舎警察の部長刑事から見れば、雲の上の存在もいいところ、相手が悪過ぎた。ノコノコ出掛けて行って事情聴取をするどころの騒ぎではない。足下の明るい内に逃げ出さないと、クビが心配だ。  しかし、それにしてもあの老婦人はなぜあれほど権柄《けんぺい》ずくみたいな態度で、質問を拒否したのか不思議な気がする。いくら八年前の事故のことを忘れたいからと言って、今回の美也子の事件を解決するためなら、もう少し協力的であってもよさそうなものだ——。  バス停でぼんやり考えていると、洒落《しやれ》たスポーツタイプの車が停まった。 「駅まで乗って行きませんか」  浅見光彦の顔が笑いかけている。 「恐縮です」  野上が乗ると、車をスタートさせながら、 「何をお知りになりたいんです。僕が知ってることは話しますよ」 「そうですか、それは助かります。しかし、そんなことをして、後で叱られませんか」 「ああ、母のことですか、あれは世間体だの格式だのの亡者みたいなひとだから、気にすることはありませんよ」  それでは、と野上は正法寺美也子の謎の行動と消えた書物について話した。 「それを解明するには、八年前の研究旅行の記録に手がかりを求めるしかないのです。それもたぶん無駄だとは思いますが……」 「無駄ということはないかもしれませんが、残念ながら祐子の場合も遺品はありません。あの事故の時、現地へは母と兄と僕が行きましたが、現場はひどい状態でしてね、荷物はもちろん、妹も全身泥まみれで掘り出されました。遺品といっても、指輪と腕時計程度で、あとは泥と一緒くたになったようなものばかりなので、捨ててきたのです」  さりげない喋《しやべ》り方をしているが、この男の妹を想う優しさのようなものを、なぜか野上は感じた。 「ところでもうひとつお尋ねしたいのですが、緑色の布表紙の本というのに、何かお心当たりはありませんか」 「うーん、それなんですがねえ、かすかに憶えていることがあるのですよ」 「えっ、ほんとうですか」 「しかし八年も昔のことだから、あまりあてにはなりませんが、確か、妹と美也子さんが卒論のテーマになるいい本をみつけたと言ってはしゃいでいたのが、そんなような本だったと思うんです。あれは美也子さんが、東大前の古本屋でみつけてきたのじゃなかったかと思いますよ。本の名は分かりませんがね」  車は神社の脇の坂道を下って上中里《かみなかざと》という駅の前で停まった。 「ここから東京駅まで真直ぐです」 「ありがとうございました」  野上は心底礼を言って、車を降りた。  浅見光彦は車を少し走らせて停まり、窓から顔を出して叫んだ。 「あなた、お名前、何ていわれましたっけ」 「野上、です」  野上は走り寄りながら言った。 「じつはですねえ、もうひとつ……」  喋りかけて、青年は絶句した。野上は辛抱づよく待ったが、 「じゃあ、お元気で頑張ってください」  にっこり笑って、答えるいとまを与えずに走り去った。 (何を言おうとしたのか——)  心残りを振り切るように、野上は踵《きびす》を返した。     2  東京を一八時五五分発�あさかぜ3号�に乗った。広島行の�ひかり�最終便に乗ると、福山での接続便がもうない。一泊分の経費を節減するためにも夜行寝台を利用した方がいいのだ。  尾道には朝六時ちょっと前に着いた。駅前広場を囲む歩道には近在の漁師のかみさん連中が獲れたばかりの魚を並べ朝市の準備をはじめていた。  野上は広場を挟んだ向こう側の瀬戸内航路の発着場までのんびり歩いて行き、朝の早い仕事に出掛けるらしい作業服姿の男たちと並んで、立ち食いそばを啜《すす》った。  穏やかな波音、潮の香り、一番船の就航時間を告げる眠たげなアナウンス。束の間、野上は事件のことを忘れ、放浪の旅人のような心境を愉しんだ。  それにしても、正法寺美也子は�謎の本�をほんとうに尾道で買ったのだろうか。だとすれば、どこの書店だろうか。確信のない探し物を前にして、野上は気が重くなる。ともかく公衆電話の電話帳で引いてみると、市内の書店の数は七つ、これなら全部当たったところでたいした手間でもなさそうだった。  開店するまでの時間を、野上は発着場のベンチの上で過ごした。時折、足腰を伸ばしに海を眺めに行ったりする程度で、山の上の寺を見物に行く気力など、とてものこと湧いてこない。  十時になるのを待ちかねて街へ出た。手帳に写した店名と住所を相手かまわず突きつけて、片端から訪ねて歩いた。  その店は三軒目に行き当たった。考えてみると、なんのことはない、尾道駅から、美也子が泊まった秀波荘旅館へ向かう道すがらにある店なのだった。 『譚海堂書店』。なんとなく尾道らしい名の店だと思いながら軒をくぐった。それまでの二軒はいずれも新刊書ばかりの店だったが、譚海堂は店の三分の一ほどのスペースに古本を並べている。入口の脇に「古書高価買入」の、陽灼《ひや》けして文字の薄れた看板が打ちつけてあった。書棚にパタパタと|はたき《ヽヽヽ》をかけている店番の老人が玉の小さな眼鏡の上からモグラのような目をジロリと向けた。野上は手帳を示し、美也子の写真を見せた。 「八月の上旬、九日ですが、こういう女の人は来ませんでしたか」  老人は妙な顔をした。 「あんたで二人目や」 「えっ?」 「いや、そのことで見えんさったのは、あんたが二人目ですがね」 「すると、僕の前に誰ぞ聞きにきましたか」 「へえ、あれは八月の末頃じゃったですかの。そん時は写真は持っておいでではなかったけど、緑色のクロスカバーの書物を買《こ》うた女の人はないか言うて見えんさったですよ」 「誰ですかそれは、男ですか女ですか」 「男の人でした」 「警察の者ですか」 「いや、会社員でしたな、私も滅多なことは言えんから言うて、名刺をもらいましたで」 「名刺……、それ、まだありますか」 「ある思います、捨てた覚えはないんで」  老人は手元の抽斗《ひきだし》を探して名刺を取り出した。 「大阪の会社の人ですな、富永さん言いんさる……」 「富永?……」  野上は思わず名刺をひったくった。名刺はD—社開発部次長富永隆夫のものだ。野上は素人の富永に出し抜かれたことに激しい驚きと屈辱を感じた。 「この人、何が目的で来たのですか」 「じゃけん、緑色のクロスカバーの本を買《こ》うた女の人はないか、言うて……」 「いや、そうじゃなくてですな、そのことを尋ねてどうするつもりじゃったか、です」 「その書物は何という書物か、訊いてはりました」 「ああ、それは僕も知りたい。何という本ですか」 「『芸備地方風土記の研究』ちゅう本ですがの。大正時代に出た書物で、ちょっと値打ちのあるもんでしたがの」 「『芸備地方風土記の研究』——ですな」  野上はメモをした。 「それで、そのことを富永氏に教えたのですね」 「教えましたが、いけんかったですか」 「いや、そうではありません。それから何を訊きました」 「その本の仕入れ先を訊かれました」 「仕入れ先?……」  富永の意図が計りかねて、野上はしばらく考え込んだ。 「で、仕入れ先を教えたのですね」 「へえ、最初はお断わりしとったですが、あまりしつこう訊かれるもんじゃけん、教えてやりました」  富永はこの老人にいくらか握らせたな、と野上は判断した。それにしても、そうまでして富永は何を知ろうとしたのだろうか。 「その仕入れ先というのを教えてください」  老人は不承不承、帳面を展《ひろ》げた。きれいな文字で、文字どおり、几帳面に記録が残っている。 「古書にはときどき出所の怪しげなものもありましてな、後で問題になった時の用心にきちんと記録しとかんといけんのです」 「この本の出所は問題ないのですか」 「ありませんじゃろな、あ、この方《かた》です」  老人は帳面の一個所を指し示した。 「この方は尾道の高校の先生をしとられましたが、この春、三次の方へ転任されるいうことで、その際蔵書の整理をしたいから言いんさって、お宅へうかがって頂戴《ちようだい》してきたもんで、『芸備地方風土記の研究』もその中の一冊ちゅうことになりますな」 「池田謙二……、さんといわれるのですね」 「そうです、池田先生。確か歴史を教えていなさるとかいう、真面目《まじめ》な先生ですな。給料のほとんどを参考資料に使《つこ》うてしまうのでかなわん言うとられました。ときどき古い本を売って、新しい本を買うようにしていたようで、ウチのいいお顧客《とくい》さんでしたが」 「三次へ転任したのですね」 「そうです」 「三次の何という高校ですか」 「さあ、公立いうてましたで、三次東高校と違いますか」 「その他に、富永氏は何か言いませんでしたか」 「あとは別に何《なあ》も……、そうじゃ、その本を買《こ》うた女の人も仕入れ先を訊かなかったか、言うとりました」 「それで、どうだったのです?」 「いやあ、図星ですがな。なんで知っとられるんか訊いたら、勘じゃ、言うて笑《わろ》うとられましたがの」 「すると、女のお客さんにも池田先生のことを教えてやったのですね」 「はい、教えましたよ」  野上は、富永のあの抜け目のない顔を思い浮かべた。富永はいったい何が目的でそれらの事実を確かめに、わざわざ尾道までやってきたのだろう。 「刑事さん、その人、いや、その女の人もですが、何かあったんですかの」 「ほう、するとオヤジさんは何も知らんのですか」  野上は呆《あき》れた。「テレビや新聞に、顔写真入りでニュースが出とったでしょうが」 「いや、わしはテレビは見んのですよ。新聞は見るが、しかし、気ィつきませんでしたなあ。いったい何ですかの」 「殺人事件ですよ、その二人とも殺されました」 「へえっ……」  老人は眼鏡がズレ落ちそうになるほど、驚いた。 「二人とも、ですかいの……」  言ったきりあとは絶句した。 「ところで、最初の話に戻りますが、その女の人は以前にも見たことのある顔でしたか」 「いや、初めてですな。言うたらなんですが、ちょっとしたブスでしたから、以前に会《お》うとれば忘れることはないです」 「すると、彼女がその本をみつけたのは、まったくの偶然ということになりますか」 「そうですやろな、店へ入ってきた時からわしは見とりましたが、歴史書の棚のところへきてすぐに、『あら』と言いんさって、その本を抜き取って、表紙の上からじっと見とられました。なんや、おかしげな様子でしたな。その内にここへきんさって、いきなり仕入れ先を訊きんさったですよ。滅多に教えられん、言うたら、ぜひその人に会《お》うてお話を聞きたい、もちろんこの本は買います、と熱心に言いんさるので、八千二百円の値が付いておったのを八千円にまけて差し上げました」 「八千円、ですか。ずいぶん高価な本なのですね」 「そりゃあんた、珍本ですからな」 「そんなにめずらしいのですか」 「まあ、めったに店頭に出るようなもんでないことは確かでしょう。もっともふつうの人には縁のない本ですがの」  だがその本に正法寺美也子は縁があったのだ、と野上は確信した。浅見光彦が言っていた「美也子さんが東大前で買った本」と同じか、もしくは同系統の本がここにもあったということだろう——。譚海堂の主人が語った美也子の様子は、まさにその本に出会えた感激を感じさせる。とは言え、さすがの野上もその時は、よもや美也子が発見した本が、そのものズバリ、美也子自身のかつての蔵書と同一のものであったとは考えもつかなかったのである。 「それにしても」と野上は言った。 「富永氏はどうして、その本がお宅で売られたちゅうことをつきとめたのかなあ……」 「ああ、それじゃったら、多分、これですがの」  老人は帳場の陰から、包装紙代わりに本を入れる紙袋を一枚、取り出した。紙袋には麗麗しく『尾道譚海堂』と印刷されてあった。  美也子も富永も『芸備地方風土記の研究』の元の所有者が三次の高校の教師であることをつきとめた——、そこまでは動かしがたい事実だ。だが、そのことと彼等の死がどう結びつくのか、まるで見当がつかない。  尾道から三次へ向かう国鉄バスに揺られながら、野上は�事実�と�謎�の狭間《はざま》を幾度も往き来した。  この国道184号線は、後鳥羽法皇遷幸の伝説に示された道筋と、ほぼ重なっている。なだらかな丘陵に松の生い茂る美しい風景は、若い二人の女子大生が心ときめかせた�後鳥羽法皇の道�に相応しい。都の栄華を逐《お》われ、輿《こし》に揺られながら、法皇の哀しみや恨みはいかばかりであったろう。血なまぐさい事件の背景に、野上はふと法皇の怨念《おんねん》を想像して背筋が寒くなった。  順序立てて事件の推移を考えてみよう。  正法寺美也子は記憶喪失症の回復を希《ねが》って山陰から山陽への旅に出た。八年前、『後鳥羽法皇伝説』研究のために友人の浅見祐子と歩いたのと同じ道を、逆方向から進んでいる。その道すがら、折にふれて書店や図書館に立ち寄り、後鳥羽伝説が記載されている書物を探していた形跡があるのは、その伝説との出会いによって、喪われた記憶を刺戟《しげき》できるかもしれぬ、と考えたためだったに違いない。そして尾道譚海堂で、まさしくその目的に叶《かな》う本を発見した。しかも、それはどうやら、かつての研究旅行のキッカケとなった�緑色の布表紙の本�と同種のものだったらしい。その時、美也子の心は激しく揺さぶられたことだろう。矢も楯《たて》もたまらぬ想いで本の出所を訊き出し、元の所有者が住む三次へ向かった。尾道から福山までの短い時間が、そのための�決断の時�だったと考えられる。  三次へ向かったからには、元の所有者・池田謙二と何らかの連絡がとられたはずだ。すると、美也子が三次駅の跨線橋上に立っていたのは、池田との待ち合わせのためではなかったのか——。  俄然《がぜん》、野上は緊張した。跨線橋上に三十分もの間、佇《たたず》んでいた意味がひとつの謎だったのだが、それに対する解答らしきものが現われた。しかも、もしこの仮定が当たっているとすれば、池田という人物がこの犯罪に関わっていることは充分、考えられる。 (まず、池田をハタこう——)  そう思ったとき、野上はハッと気がついた。 (あの富永も、いまの自分と同じことを考えたのではなかったのか——)  野上が捜査の糸口を掴《つか》んだのと同じところに、富永もまた着目した。富永にしてみれば、折角�消えた書物�の情報を提供したにもかかわらず、警察が採り上げてくれなかったことに不満を抱き、ひとつ自分の力でこの謎を解いてみよう、と考えたのかもしれない。だが、単に捜査当局の生温《なまぬる》い動きに業を煮やした、やむにやまれぬ真相究明のための行動——とも考えにくい。かりに、ある時点まではそうだったとしても、書物の出所を嗅《か》ぎ当てた瞬間から、富永は恐喝者に豹変《ひようへん》したのではないだろうか。警察を出し抜くだけが目的であるにしては、�殺人事件�にのめり込むのはあまりにも無謀すぎる。現に、その結果、富永はあたら一命を失うことになったではないか。  いや、もっとも、富永がそのために殺されたとするのは早計だが——と、野上は自分の独断に心の中で苦笑した。もし、美也子と富永が同じ軌線の上で殺されたのだとすると、池田謙二という人物は高校教師の皮を被った�殺人鬼�ということになる。  しかし、とにもかくにも、当面の目標は池田だ、と野上は思い、身内に闘志が昂揚《こうよう》してくるのを感じた。目的はどうであれ、本職の捜査官より一歩先んじた富永の推理と行動力に敬意を表し、彼の屍《かばね》を越えて真相に肉薄するのだ、と奮い立った。  野上は、この捜査は自分独りの力で進めようと考えていた。もともと、ここまで辿《たど》ってこられたのは�消えた本�の存在が物を言っている。桐山警部——捜査本部がその重大な情報をニベもなく無視した瞬間から、自分の�孤独な捜査�は始まったのだ、と意地を張る気持ちがあった。それは敵に対しては勿論《もちろん》、�味方�に対しても危険な考え方であった。  原則として、捜査官は単独で行動することを規制されている。今回のように遠方への出張で、行先も目的も分かっている場合ならともかく、通常の捜査行動は二人一組で行なうのがふつうだ。ひとつには、不測の事態に対する危険防止の意味があり、また、犯人逮捕の際には裏口からの逃走を押さえる必要もあるからだ。そしてもうひとつ、捜査官自身の不正を未然に防ぐ狙いも若干ある。捜査官は常に甘い誘惑の対象になっていると言っても過言ではないのだ。とくに暴力団と警察官の癒着は起こりやすく、上層部は絶えず警戒の目を光らせ、綱紀粛正を叫び続けている。  理由のない単独行動は、言ってみれば捜査規範に悖《もと》る行為だ、それをあえて冒してまで�抜け駆けの功名�に惹《ひ》かれるのは、ただ、あの桐山警部のハナをあかしてやりたい、その一点に尽きる。自分のやることなすこと、すべてを冷笑し、三次署そのものを田舎警察視するあの小憎らしいエリート警部に、叩《たた》きあげた刑事《デカ》の底力を思い知らせてやりたかった。  御調、甲山、吉舎《きさ》、三良坂《みらさか》——。バスはまさに後鳥羽法皇の道を北へ向かって走る。移り変わる風景に目を向けていながら、野上の意識には心象に映し出されるさまざまな事物だけが去来していた。美也子、富永、そしてまだ見ぬ高校教師・池田、さらには謎めいた�消えた本�。尾道から出雲へ抜ける『尾庄《びしよう》街道』の上で、いったい何があったのか——。  所要時間二時間三十五分、三次駅前のバスターミナルには午後三時少し前に着いた。三次署はもう目の前である。野上はちょっとためらってから、公衆電話ボックスに入った。  三次東高校の番号を調べてダイヤルする。授業中かもしれぬとも思ったが、池田はすぐに電話口に出た。 「池田先生ですか」 「そうですが」 「私は野上という者ですが、先生にぜひお目にかかりたいことがありまして」 「野上さん……、父兄の方ですか」 「いえ、そうではありません」 「どちらの野上さんでしょう」  声に警戒するひびきがあった。 「はじめてお目にかかる者ですが、尾道の譚海堂さんから聞いて参りました」 「譚海堂……」  あきらかに池田は動揺した。 (こいつ、やはり何かを知っているな——) 「いかがでしょう、学校の方へお邪魔してもよければ、そちらへうかがいますが」 「いや、それは、まずい、です。私用は外の方が……。では駅前のサンモリッツで会いましょう、時間は五時」  動揺を隠すように早口で言い、一方的に電話を切った。  二時間の空白ができたので、野上はいったん署へ顔を出すことにした。捜査本部には石川刑事がいて野上の顔を見ると嬉《うれ》しそうに立ちあがった。 「お帰んなさい、いかがでした、収穫はありましたか」 「まあまあ、と言いたいところだが、大したことはない」  野上はどちらとも取れる言い方をした。 「桐山警部は?」 「いま、ちょっと席を外されました」 「そうか」  うまい具合に桐山が留守のあいだに抜け出せれば、と思ったが、桐山は十分ほどで戻ってきた。 「野上君、東京の報告を聴こうか」 「は」  野上は正法寺家と浅見家を訪ねたことを概略、話した。 「結局、被害者がなぜ福山から三次へ向かったかについては、家族にはまったく思い当たることはないということです。ただし、例の緑色の表紙の本はどうやら最終日に買ったらしいということが分かりました。したがって、その本を買ったために、急遽《きゆうきよ》三次へ行く気になったことは、充分考えられるのです……」 「やめたまえ」  案の定、桐山は不機嫌にピシッと言った。 「きみはそんなことを調べるだけのために、高い旅費を使って東京まで出掛けたのかね」 「いえ、そんなことはありません」 「ほう、それではまだ何か報告することが残っているのかい」  野上は口惜しさのあまり、あやうく尾道での一件を喋りそうになるのを堪《こら》えた。 「どうやら無さそうだね、もういいよ、今日は帰りたまえ、少し疲れているんじゃないかね」  桐山は露骨な皮肉をこめて、言った。しかし、皮肉でもなんでも、帰れというのはこの際、野上にとっては渡りに舟だ。心配そうな石川には済まないと思いながら、野上はさっさと帰り支度をはじめた。周辺に屯《たむろ》する仲間たちが複雑な視線を投げかけてくるのも、ほとんど気にならぬほど、気が急《せ》いていた。  第四章 暗 転     1  約束はしたものの、ほんとうに来るかどうか危ぶんだが、池田謙二は正確に五時ジャストに現われた。一六〇センチぐらいの小柄な痩《や》せた男で、度の強い眼鏡の奥から小心な目がこちらを窺《うかが》った。野上は立って行って、 「池田先生ですね」  声をかけた。池田は怯《おび》えた顔で頷《うなず》いた。向かい合いに座ると、しきりに周囲を気にしている。野上はあらかじめポツンと離れた隅の席を取っておいたから、他人に話の内容を聴かれるおそれはなかった。 「じつはこういう者です」  野上は池田だけに見えるように警察手帳を示した。 「警察……」  池田は口の中で呟《つぶや》き、ひきつった表情を見せた。そのくせ、心の動揺を隠すつもりか強がって、 「それが、何かご用ですか」  と言った。その言い方の中に野上は、警察が接触してくる状況を、この男はある程度予測していたのではないか、という感じを受けた。池田の表情に、どことなく芝居がかったもののあることも見てとれた。 「池田先生は正法寺美也子という女性を知っていますね」 「名前だけは知っております」 「会ったことはありませんか」 「ありません」 「ではどうしてご存知なのですか」 「それは、新聞に出ておりましたから」 「それだけではないでしょう」 「じつは、電話をもらいました」  あまりにもあっさり答えたので、むしろ野上の方が面食らった。 「電話、というと、どういう内容でした」 「会いたい、ということでした。確か福山駅から電話していて、これから三次へ行くので、四時頃また電話するということでした」 「それは先月の九日のことですね」 「そうです。学校が夏休みで、私は下宿に居りましたが、学校へ電話して下宿の方へかけ直したというので、お断わりするわけにもいかず、ずっと下宿に待機しておりました」 「それからどうしました」 「それっきりです、四時から一時間経っても電話がこないので、多少腹が立ちましたが、翌日のニュースでその女性が殺されたことを知ったというわけです」 「では、四時から五時までのあいだ、ずっと下宿におられたのですね」 「いや、その日は結局、一日中下宿にいましたよ。途中、一度だけ煙草《たばこ》を買いに出ましたがね」 「それは何時頃ですか」 「さあ、何時頃だろう。十一時半頃じゃないかと思いますよ。そうだ、女の人から電話のあった直後でした」 「下宿には誰《だれ》か居ましたか」 「つまり、アリバイを証明してくれる人間というわけですね」  池田ははじめてニヤリと笑った。その時、これまで四十歳前後かと思っていたこの男がせいぜい自分と同じぐらいか、あるいはもっと若そうだということを、野上は発見した。 「それでしたら少なくとも三人はいますよ。その日は高校野球に地元のチームが出場するので、丁度、三時から五時半頃までのあいだ、下宿の茶の間に勢揃《せいぞろ》いしていましたからね。地元の旗色が悪いので、途中で抜けた者もいましたが、私は電話もかかってくることだし、最初から最後までテレビに付き合いました」 「先生の下宿はどちらですか」 「学校の傍の上原《かんばら》です」  上原から駅までは優に一キロはある。 (この男はシロだ——)  野上はそう断定せざるをえなかった。 「ところで、その電話をしてきた女性は、会いたい理由が何か言いませんでしたか」 「ええ、何も」  池田は目をしばたたいた。(この男は嘘をついてる——)と、野上は感じた。 「先生は、『芸備地方風土記の研究』という本をご存知ですね」 「ええ」 「彼女は尾道の譚海堂書店でその本を買ったのですが、この本を譚海堂に売ったのは先生ですね」 「ええ、私が売った本だと思います」 「どうも、彼女はその本のことであなたに会おうとしたらしいのだが、そうは言ってませんでしたか」 「いいえ」 「それでは何が目的なのか言わなかったのですか」 「ええ」 「しかし、おかしいですね、見ず知らずの女性から電話があって、目的も分からずに会おうとされたというのは」 「おかしくてもなんでも、事実ですから」 「それにしても、あの事件があった時、なぜ警察に届け出なかったのですか、重大な手がかりになるとは考えなかったのですか」  野上の鋭い追及に、池田は苦しい表情になった。 「確かに、言われるとおり、いま思うと申し訳ないことをしました。しかしその時点では関わり合いになりたくないという気持ちばかりが働きまして、とはいえ、その引っ込み思案が次の事件にまで尾を引くことになったわけですが……」 「次の事件?……」  野上は意表を衝《つ》かれた。富永の事件については第二の切り札として用意しているのだ。まさかそれを逆に持ち出すのではあるまい——。 「じつは、庄原の七塚原で男の人が殺された事件なのですが……」  野上の思惑にかまわず、池田はズバリその事件を持ち出してきた。 「その男の人からも電話をもらったのです。やはり、会いたいということでした」 「それはいつのことですか」 「九月二日と八日の二回です。二日の時は私の都合を確かめるための電話で、その時、八日の夕刻以降なら空《あ》いていると言いました。丁度その日は学校の宿直に当たっていましてずっと暇だったのです。それで八日の昼過ぎ頃にもう一度電話があり、今晩八時頃行くからということで、心待ちにしておったのですが、結局すっぽかされまして……、しかし翌日のニュースで富永という人が殺されたと知ってゾッとしました。もしかすると別人かとも思ったのですが、歳恰好《としかつこう》からいってもどうも同じ人らしいし、全然連絡のないことからみてもそうとしか考えられません。なんだか死神にとり憑《つ》かれたみたいで気味悪かったですよ」 「その時も届け出はしなかったのですね」 「ええ、まったく申し訳ないことだが、この事件を届け出れば、その前の事件のことも問題になりますしねえ、とにかく関わりあいになるのはご免だし、それに、まさかこの私が事件に関係しているなどとは誰も気付くはずはないと……、しかし、刑事さん、あなたはどうしてそのことを知ったのですか」 「それは電話で言ったとおり、尾道の譚海堂さんから聞いたのですよ」 「ああ、やはりねえ……」  溜《た》め息《いき》まじりに池田が呟くのを見て、野上はそうか、と得心がいった。この男は譚海堂から事実が洩れたことを知って、もはや隠しおおせるものでないと腹をくくってきたに違いないのだ。もしそうでなければシラを切りつづけたかもしれない。 「それで富永さんは、あなたに会いたい理由は話さなかったのですか」 「ええ、話しませんでした。会ってから話すと言って。それに、私は富永さんが前の女の人、正法寺さんと関連があることさえ知らなかったのです。それが、富永さんが続いて殺されたので、もしかするとという気にはなったのですが……、どうなのですか、あの二つの事件にはつながりがあるのですか?」 「それはむしろあなたの方がよくご存知じゃないのですかね、元はと言えば、あなたが譚海堂に売った『芸備地方風土記の研究』という書物に端を発しているのだから」  野上の皮肉な視線に出くわして、池田はまたしても一瞬、怯えた目になった。どうもこの男には何かある——と、野上はますます疑惑を深めた。 「その書物なのですがねえ、いったいどういう内容の本なのですか」 「どういうって、読んで字のごとく、芸備地方に残っている風土記を研究したものです」 「すると、後鳥羽法皇の伝説なども載っているのですか」 『後鳥羽法皇』の名を聞いた時、池田はあたかも嘘発見器《ポリグラフ》にかけられた男のように動揺の色を見せた。 「それは、もちろん、載っていますよ」 「殺された正法寺美也子さんという女性は、どうもその後鳥羽法皇伝説に関心を持って、法皇が通った道筋を旅していたらしい。池田先生に会う目的も、そのことに関連していたと考えられるのですが、先生はその伝説のことにお詳しいんじゃありませんか」 「ええ、自分で言うのはおかしいですが、一応の知識はあります。もともと、私が広島県の高校に就職した目的は、この地方の史蹟や伝説などに興味を抱いたためですし、中でも後鳥羽伝説は研究の対象として、最も魅力的なものと言えます」 「そんなに面白いものですか」 「面白いなどと、軽軽しい言い方をしていただきたくないですね。研究とはもっと血肉を削るような真摯《しんし》なものですよ。それに、後鳥羽法皇という一人の英傑が歴史の大浪に抗し切れずに滅んでゆく過程で、政治の中枢と民衆がどのように関わりあい、行動したかというのは、ひどく厳粛なものです。伝説とはいうけれど、そのとるに足らぬような断片のひとつひとつに、権力を得た者と喪った者、そしてその両者の確執の狭間《はざま》で身の拠りどころを確かめつつ、ひっそりと歴史をみつめていた土着の人びとの息遣いが込められていると言っていいでしょう……」  話している内に、池田の双眸《そうぼう》が異様な輝きを帯びてくるのに、野上は気付いた。 「そもそも、この遷幸のルートが�伝説�としてしか存在しえなかったことそれ自体に、当時の中央政権である鎌倉幕府の強大な力と同時に、京都の勢力を率いて起ち、敗れ去った後鳥羽法皇に対する彼等の桁外《けたはず》れの恐怖心があったことが読み取れるとは思いませんか。幕府は明らかに�影法皇�を立てて正規のルートを歩かせ、真の法皇は尾庄街道を潜行させることによって、地方の豪族の目を眩《くら》ませようとした。だが、影法皇が無事に隠岐へ渡るのと同時に、今度は真の法皇が通ったルートから、その痕跡を一掃しようと図っています。このような偽計を用いたことは、とりもなおさず法皇に対する幕府側の怯懦《おびえ》ぶりを示す証拠であり、法皇の勢威の偉大さを裏打ちすることにほかならないからです。承久の変後、吉舎、三良坂付近のいわゆる三谿《みたに》十二郷を領することになった和智《わち》氏は元来、武蔵《むさし》の国・広沢に在った広沢氏の一族が幕府の命令で土着し、興《おこ》したもので、幕府がいかにこの地の政治に関与し、情報の流出を封じようとしたかが分かります。  しかし、事実は草の根のような民衆の語り伝えに細々ながら生き続けた。逆に言えば、そういう形でしか残りえなかったということでもありましょう。たとえば、高野町に功徳寺という古刹《こさつ》がありますが、そこは法皇がひと冬を過ごし、翌年春、王貫峠を越えて出雲入りするまで暮らした行在所《あんざいしよ》だったとされています。無論、これも伝説と片付けてしまうのはたやすい。しかしこの寺に遺された法皇の宸筆《しんぴつ》と言われる『萬蔵院』の勅額や、法皇使用と伝える硯《すずり》、銀蒔絵箸《ぎんまきえばし》、装束布地などの品品は、単純に笑って無視できるものではありません……」 「ちょっと待ってください」  池田の言葉が途切れた一瞬をとらえて、野上は手を挙げて制した。このまま喋らせておいたら終わりがないと思えるほど、池田の話は何かに憑かれたようにとめどなく続きそうな気配だった。それにしても歴史を語るときのこの男の変貌《へんぼう》ぶりはどうだろう。小柄で貧弱な肉体に精気が漲《みなぎ》り、小心と見えた顔付きまで自信と情熱に満ちている。 「先生のお話は大変に興味深いものですが、いまは残念ながらそれを傾聴している場合ではないのです。なにしろ、ここひと月のあいだに、二人の人間が殺され、それが二人とも先生に接触を図ろうとしていたのですから穏やかではありません」  とたん、池田は塩をぶっかけられた蛞蝓《なめくじ》のように、白っぽくしおれた。 「どうでしょう、この二人が殺された事件があなたと全く関係がないとは思えないのですが、何かご存知じゃありませんかねえ」 「知りません、知っているわけがないでしょう」  何も知らないとは、とても思えないが、この一線は崩せないと野上は判断した。 「ところで、九月八日の晩、あなたはどうしていました」 「九月八日? それは先刻言ったでしょう、宿直だったと」 「すると、ずっと学校にいたのですね」 「そうです」 「ひとりで、ですか」 「そうです、そういう規則《きまり》ですから」 「外出はしなかったのですね」 「もちろんです、坊っちゃんとは違いますから」  洒落たことを言ったつもりなのか、ニヤッと笑う。 「そのことを証明してくれる人はいますか」 「いるわけがありませんよ」 「ではアリバイはないことになりますね」 「アリバイ? まさかあんた、私が富永さんを殺《や》ったと……」 「いや、可能性だけの問題ですがね」 「ばかばかしい、第一、あの人は七塚原で殺されたのでしょう。どうやってそこまで行くのです、車もないのに」 「どんな方法でも行けますよ、自転車でもいいし、歩いてだって行けないわけではない。なにしろ時間はたっぷりあったわけですからね」 「冗談じゃない……」  言いかけて、ふいに「あっ」と妙案を思いついた顔になった。 「富永さんが殺されたのは、たしか八日の夜十二時頃でしたよね」 「そうです、正確に言うと、九日の午前零時頃から二時頃までのあいだ、ということになっています」 「それならアリバイを立証してくれる人が何人もいますよ」 「何人も?」 「ええ、それも、きわめて信頼できる人たちばかりがね」 「ほう、それはどなたですか」 「三次警察署のお巡《まわ》りさんたちですよ」  池田は小気味よさそうに、言った。野上は開いた口がふさがらなかった。 「じつはあの晩、ちょっとした盗難事件がありましてね。十二時少し前でしたが、定時の巡回で、廊下の戸がほんの僅《わず》か開いているのに気付いたのです。その前、九時に見回った時にはピッタリ閉まっていたはずなので、これは怪しいと思い、すぐに一一〇番しました。調べてみるとやはり何者かが侵入していたのですね、盗まれたのはつまらない物だったのですが、警察の捜査の方はけっこう時間がかかりまして、かれこれ三時近くまでガタガタしました」 「思い出しましたよ」  野上は苦い顔で言った。 「確か、試験の答案用紙が盗まれた事件でしたね」 「そうです。ではあの折、あなたも?……」 「いや、自分は当直ではなかったですから、あとでそういう事件のあったことを聞いたのですが、あれは確か、事件にしないようにという申し入れがあってケリがついたのでしたか」 「ええ、どうせ犯人は生徒の誰かに決まっているので、校長の裁断でそのようなことになりましたが、私は責任を痛感しました」 「分かりました」  野上は唐突に起ち上がった。 「どうもありがとうございました。たいへん参考になりました」 「そうですか、それで、このあと私はどうしたらいいのでしょうか」 「いずれ三次か庄原か、どちらからか呼び出しの連絡があるでしょう、それまではあまり動かないように願います。とくに、旅行に出掛ける場合には、一応連絡してください」  テーブルから伝票を取ると、さっさと出口へ向かった。「あ、それは私が……」と言う声に構わず、野上は金を払い、店を飛び出した。空には星がなかった。  翌日、それとなく九月八日夜の事件簿を調べてみると、池田の言ったとおりであることが分かった。一一〇番は午後一一時五二分に入っており、パトカーが高校に着いたのは零時、と記載されている。  まさに完璧《かんぺき》なアリバイと言うほかはない。しかし、そのあまりの完璧さがかえって野上は気に入らなかった。 (なんだって、その晩にかぎって盗みがあったのだ——)  八つ当たりのように、そう思った。しかもその時間が七塚原で富永が殺された時刻とピタリ符合していることが、また気に入らない。うまくできすぎているのである。まるでその泥棒は池田のアリバイを立証するために侵入したようなものではないか。  それにしてもあの池田謙二という男はどういう人物なのか、一見小心そうに見えて、しかし肝心なところでは強靱《きようじん》なしたたかさと隙《すき》のなさを感じさせる。こちらの思惑をちゃんと心得ていて、つぎつぎに先回りするような抜け目なさもある。  その晩、帰宅すると、野上は妻の智子に、 「頼みがあるのだがな」と言った。 「あら、めずらしいわねえ」  智子は目を瞠《みは》った。 「この辺に三次東高校の生徒はいないか」 「いるわよ、藤井さんのお宅、信浩さんとか言ったかな」 「そうか、それじゃな、その子にそれとなく訊いて欲しいんじゃが、池田謙二いう歴史の先生、どういう人かってな」 「池田先生? 何なの、その人……」 「まあいいから、訊いてくれや」  次の日、その返事が出た。 「池田先生っていうのはすごい真面目な先生なんですって。朝から晩まで歴史のことばかりで、生徒よりはるかに勉強家らしいわ。あまり人気のあるタイプじゃないけど、生徒の方も一モク置いてるようなところがあるらしいわね。まだ独身で、あれじゃ嫁のなり手がないだろうって」 「そうか……」  やはりイメージどおりだ、と野上は落胆した。どこから眺めても、あの男が人を殺せるとは考えられない。しかし、正法寺美也子も富永隆夫も、池田謙二という人物を目当てに三次へ来て、そして殺されたことは事実なのだ。池田がそれらの事件に無関係だなどということは断じて、ありえない。 (何かがある、いまにあの男の化けの皮をひん剥《む》いてやる——)  野上は執念深く、胸の底で呟いた。     2  三次市の市街地は、馬洗川によって大きく二つのブロックに分かれている。西のブロックは天正十九年(一五九一)に三吉広高が比熊山城を築いた時以来の城下町で、そのブロック全体を「三次町」と称している。それに対して東のブロックは「十日市町」と称ばれる。三次町の起源が城主の勧奨によって始められた五日市であったのに対応する市《いち》として発生した市街であるだけに、庶民的な活気は現在にも受け継がれ、いまでは三次駅から北に展がる商業の中心として繁栄している。  十日町の東、市街の東端が上原《かんばら》で、ここには三次東高校が建っている。旧制の中学校が戦後、男女共学の高校に変わった。県北有数の名門校として三次市内ばかりではなく、隣接する町村から子弟を集め、在校生は一二五〇名を数える。  都会地の学校と異なり広大な敷地に恵まれ、新旧合わせて四棟の校舎と、近代的設備の整った体育館、総合グラウンドを保有している。  生物教室は古い木造校舎にある。生物教室に限らず、化学教室、美術教室、農林教室など、薬剤や実験、実習を必要とするような学科の教室はすべて新校舎から敬遠され、設備の悪い旧校舎に押し込まれていた。しかし、その中でも生物教室の環境は特に劣悪で、北の外れにあるせいか傷みもひどく、廊下から教室に入るドアは二つとも建てつけが悪くて、生徒からは「開かずの間」と呼ばれている。  もっともこの名称には多少の恐怖感が伴っていることも確かだ。教室の棚にはいつもさまざまな動物のアルコール漬が並び、時には解剖途中のモルモットが置いてあったりすることもある。女生徒はもちろん、男生徒でさえ、この教室に一人で入ってゆくには少なからず勇気を必要とした。  その日、二時限目が�生物�だったのは一年B組である。九時三〇分、二人の男子生徒が冗談を言い合いながら例によって重いドアを協力して開け教室に足を踏み入れた。  後に、この二人の生徒は「誰かのいたずらだと思った」と口を揃えて言っている。人体組織図と等身大の骨格模型が並ぶ隣に、等身大(?)の人間がぶら下がっていた。  その光景は多少の違和感こそあったが、瞬間的に衝撃を与えるようなものではなかったから、二人は「何や、あれ……」と、まだ笑いの残る顔を見交わす余裕があったほどだ。真の恐怖が襲ったのは、三番目に入室した生徒が「首吊《くびつ》りじゃ!」と叫んだ時である。 「ケムンパスじゃ!」  続いて誰かが叫んだ。ケムンパスは歴史教師・池田謙二の綽名《ニツクネーム》であった。  三次署に第一報が入り、刑事課に出動命令が伝達された瞬間、野上は震え上がった。学校側は最初から「自殺」という判断で報告してきている。 (自殺でなんかあるものか——)  パトカーの中で、野上は祈るような想いだった。もし池田の死が自殺だとすると、野上の立場はきわめて微妙なことになる可能性があった。自殺の動機として現在考えられることは、野上によるきびしい追及を措《お》いてない。池田が二つの殺人事件に関与していないとしても、また関与していればなおのこと、野上の行なった�捜査�のあり方が問題になるだろう。しかし、それより何より、いまここで池田を死なせたことそのものが捜査にとって大打撃だった。だからこそ池田の死は自殺ではないと野上は信じた。 (ヤツは消された——)  そういう事態になることをなぜ予想できなかったのか、悔やまれる。美也子を殺し、富永を消した、その仮借ないやり口から見て、当然、そのことは予測されるべきだったにもかかわらず、野上は池田の身の安全を守るための何の策も施さなかった。池田への尋問を行なってから二日間、無為に時を送っている。追及のための新しい材料を求めるためとはいえ、迂闊《うかつ》であったことに変わりはない。もっと早い時点で任意出頭を求めるなり、思い切った捜査に踏み切っていれば、事件解決への何らかの糸口を訊き出せていたに違いない。それをしなかった理由が愚にもつかない、桐山警部へのサヤ当てというのでは、救いようがない。  警察が駆けつけた時には、現場の保存状況はきわめて悪いものであった。首吊り死体の発見と同時に学校中の教師と生徒が現場に押し寄せ、元気のいい男の教師が五、六人掛かりで死体を下ろした。首吊りに使用されたロープは首から解かれ、床に放置され、その上を大勢の人間が踏みつけて通ったらしい。 「畜生、なんてこった……」  野上は屈み込んで、ロープに顔を近寄せた。何の変哲もない、荷造り用の細引で、実際に荷造りに使用された物らしく、少し擦れて毛羽立った部分があちこちに見られる。 「野上さん、ちょっとどいてください」  鑑識班がカメラを構えて、言った。野上が退くとフラッシュが光った。二発目のフラッシュの時、野上はロープの上に小さな銀色に輝く物のあることに気付いた。ところが目を近付けると何も見えなくなっている。 「おい、もう一発、この角度でフラッシュを焚《た》いてみてくれんか」  フラッシュが光った一瞬、|その物《ヽヽヽ》の位置がはっきり分かった。 「なんじゃ、これは魚の鱗《うろこ》か」  よく気を付けて見ると、まだ他にも鱗が麻の繊維の隙間に挟まっているのが発見できた。野上は鑑識の注意を促して、その鱗片《りんぺん》を採取させた。もしかすると、何かの魚を運送するために使われたロープかもしれない。  その他にはめぼしい発見はなかった。遺書もない。そのことに、若干、警察側は拘泥《こだわ》った。しかし情況はまったく自殺を思わせる。学校側もとっくにそのつもりで対応し、遺体を宿直室に安置し、顔の汚れなどはきれいに拭き取って、死者に対する礼を尽くして|しまった《ヽヽヽヽ》のである。床の上に遺されているはずの足跡も入り乱れ、鑑識をして「採取不能だよ」と嘆かせた。踏台代わりに使ったと見られる椅子《いす》の上に池田の靴底と一致する足跡が数個、残っていた。足跡は爪先《つまさき》と踵《かかと》の方向が、初めと終わりでは、一八〇度、逆になっている。つまりそれは、最初椅子に上がって、柱に打ちつけてある鉄製の鉤釘《フツク》に細引を結び、それから柱を背にして椅子を蹴《け》った——という一連の行為を示していた。 「|立派な《ヽヽヽ》自殺だな」  森川係長が断定的に言った。検視に立ち合った長谷川医師も異論がなかった。一人だけ野上部長刑事が積極的に疑義を挟んだ。 「係長、もっと慎重に調べてから結論を出してください。他殺の可能性もあるんだから」 「そりゃ当然だが、何ぞ考えでもあるんか」  森川は不思議そうに、異常に熱心な野上を眺めた。野上はしかし、答えようがない。どう説明したところで、自分の立場は微妙なことになるであろう。まかり間違えば、いや、そうでなくともこれは処分の対象にひっかかる。えらいことになった——、という想いと、それはそれとして、この首吊りはただの自殺なんかで片付けてはならない、と声を大にして叫びたい想いとが交錯した。  だが、そういう野上の焦燥をよそに、警察は|着実に《ヽヽヽ》この事件を自殺として処理しつつあった。解剖の結果、薬物の使用や外傷などは発見されなかったし、衣服の状態にも争った様子がないことから、十中八、九、自殺と断定して差し支えないと考えられた。  問題は動機である。この�自殺�には遺書がない。遺書のない自殺には犯罪の臭いがするというのは捜査の常識だ。だから自殺と特定するためには遺書に相当するだけの物的証拠なり情況証拠なりを収集する必要がある。ところが、池田の周辺をいくら調べても、絶対的と言えるほどの証拠能力のある事実は浮かんでこないのだ。  ただ、職員室の同僚の中に、「近頃の池田先生はかなり心労があったようです」ということを指摘する者が何人かいた。 「時どき考え込んだり、しんどそうに溜め息をついたりすることもありました」 「失恋でもしたのと違いますかなあ」 「いや、サラ金か何かで悩んどったのじゃないかな」 「そう言えば、この頃妙な電話がかかってくることが多かったですね。電話を取り次ぐと、周りに聴かれないように気を配って、小さな声で喋ってはったが、なんだか怯《おび》えているような様子に見えましたな」  下宿に出向いた刑事もほぼ似たり寄ったりの話を訊いてきた。池田の下宿先は昔、浅野藩の分家の重臣だったといわれる大きな屋敷で、現在はその一部を改造して近くにある官庁の出先機関や学校の独身職員などを下宿させている。いまどき下宿はめずらしいが、室料の安いことと主人夫婦が面倒見のいいために、転勤してゆく前任者が後輩を紹介するので、下宿人が絶えることはないという。 「この頃の池田先生の様子は、そりゃ、ただごとではなかったですの」  と、下宿の主人夫婦は声を揃えて言った。 「何やらいわくのありそうな電話がくるようになったし、それに、あの先生は学校が終われば真直ぐ帰ってきて、暇さえあれば勉強していなさったのに、この頃は行先も言わんと晩にどこぞへ出掛けることが多うて、顔色も悪いし、ご飯もよう召し上がらんような有様でしたけんなあ」  この事件に関して、はじめの内は桐山警部はノータッチの構えだったが、こうした報告をつぎつぎに捜査員が仕入れてくるにつれ、座視しているわけにもいかなくなったのだろう。県警の刑事連中にも協力を命じて、本来の三次駅殺人事件を一時棚上げにするような格好で捜査を進めた。いったん捜査指揮に乗り出すと、桐山のやり方にはさすがと思わせるものがあった。それまで、学校や下宿、交友関係等にばかり目を向けていた捜査員に、市内の喫茶店、バー、レストランなどの聞き込みを指示したのである。言ってみれば�発想の転換�だ。古いタイプの捜査員になればなるほど、現場や関係者など、現在、目に見えているものに密着し、そこに手掛かりを求めようとする。そこからポンと離れて、まったく、関係なさそうな場所に飛躍する発想が、なかなか浮かばない。 「学校や下宿での付き合いは、池田氏の表の部分だ。自殺にしろ、何らかの犯罪が行なわれたにしろ、彼を死に至らしめたような、いわば影の部分は、そういうものとは無縁な場所や対象に求めなければならない」  桐山は若い捜査員に、そんな風に述懐している。なるほど——と感じ、以来、桐山警部に心服する者が増えたことも事実だ。そして、その捜査の結果、捜査員のひとりが耳よりな情報をキャッチしてきた。死ぬ数日前、池田は駅前のサンモリッツという喫茶店に現われ、男の客と深刻そうな話をしていたというのである。  この話を耳にした時、野上は観念しないわけにはいかなかった。その�サンモリッツの男�に焦点を絞って捜査が進められれば、野上の足元に火がつくのは時間の問題だ。しかも相手はあの桐山である。今度の事件でも、喫茶店関係の聞き込みを命じた指揮ぶりの冴《さ》えはさすがと言うほかはない。どうせバレるなら、桐山の手で絞めあげられるのを待つより、自ら進んで白状《ゲロ》した方がよほど気分がいい。  野上は桐山のいない時を見すまして、森川警部補の前に立った。 「係長、お話ししたいことがあります」 「なんや、改まって」 「じつは、サンモリッツで池田が会っていた男についてですが」 「分かったんか」 「はい、いや、じつはですね、あれは自分のことなのです」  森川はキョトンとした顔で、野上をみつめた。 「なんやて?」 「ですから、池田とサンモリッツで会《お》うとったのは、自分だと言うているのです」 「どういうこっちゃ、それは」 「つまりですね、正法寺美也子の事件捜査の目的で池田に事情聴取を行なったのです」 「ちょっと待てや、そんなことはわし、初めて聞くで」 「はあ、情況がはっきりしてから報告するつもりでおりましたので」 「しかし、それやったら個人プレイと違うか、ことと次第によっては服務規定に違反しとるということにもなるで」 「はい、申し訳ありません」 「なんや、それ、分かっとってやっとるのかや。どうしたんじゃ野上、いや、こりゃちょっと問題やな、とにかく課長に一緒に聴いてもらわんと、どもならんで」  森川は周章《あわ》てふためき、刑事課長の落合が席に戻るやいなや、野上を引き立てるようにして連れて行った。  それから先は野上にとって終生忘れることのできそうにない屈辱の時間であり、日日であった。  捜査の過程で野上が『芸備地方風土記の研究』という書物の存在を知り、そこから池田謙二という人物をたぐり当てたという事実はそれなりに評価できる。しかし、その経過を上長に報告しなかったばかりか、捜査主任の桐山に報告を求められたにもかかわらず、明らかにそれを無視し、虚偽の報告を行ないスタンドプレイに走ろうとした罰点は、その功績を相殺してなお余りあるものだ。  しかも、野上にとっても不幸だったのは、独走した捜査の結果、重要参考人であるべき池田を自殺に追いやり、事件の謎を解く重要な手がかりを失わしめたことだ。  野上の調査は手段はともかく、一応、事件の側面的な部分についてかなり核心に迫っている。情況としては正法寺美也子と富永隆夫の事件に池田が何らかの形で関係していたと考えられなくもなかった。そういう疑いがある以上、池田は生きた|証拠《ヽヽ》として当局の管理下に�保護�されるべきだ。捜査が組織的に行なわれていれば、当然、早い段階で任意出頭を求め、供述に対する裏付け捜査を進め、供述の矛盾を衝くなりして真相究明へのスピードアップを図ることができたかもしれない。また、常時、身辺に捜査員を張り付けることによって、逃亡や自殺を含めて事件|隠蔽《いんぺい》工作を封じ込めていたはずなのだ。  単独捜査——それも捜査規範に違反した隠密捜査は、重要参考人の自殺という悲劇的な結末をもたらした。 「なぜこんなことになったんや、野上《ガミ》さんらしくないで」  森川警部補は地団太踏んで口惜しがった。野上という男は元来、地味な性格だということを森川はよく知っている。捜査のやり口もジクジクと執念深く、誰も顧みないようなことに拘泥《こだわ》るところがある。それだけに命令したことについてはトコトン調べ尽くしてくるという頼り甲斐があった。家庭をそっちのけで仕事熱心だし、組織に対しても忠実な、いわば理想的な警察官だと信じていた。 「魔がさしたんじゃろなあ」  森川にかぎらず、大友署長以下の、これが結論めいた感想であった。  野上は�独走�の理由を自分の状況判断の誤り——とだけ言って、それ以上の弁解は一切しなかった。もっとも、真の動機は桐山に対するサヤ当てということであって、そんな駄々っ子みたいな理由は言えるわけがない。  桐山警部はこうした状態を、三次署の内部事情として徹底して傍観する立場をとった。ありていに言えば�冷笑�である。ただし、野上の行為によって、事件捜査に重大な支障をきたした事実については公式に確認するよう、大友署長に釘《くぎ》をさしている。もちろん、そのことは県警本部長のところまで順次報告が上がっていくであろう。これによって、かりに捜査が不調に終わるようなことがあっても、それはあくまでも、質の悪い捜査員とその直属管理者である三次署幹部の責に帰されるべきものであって、桐山の失点とはならない。まさに、着任当初から桐山が企図し続けていた�希《のぞ》ましい状況�が完成したのである。  桐山は内心ではひそかに北叟笑《ほくそえ》みながら、しかし業務は抜かりなく進めた。  池田の�自殺事件�によって、富永隆夫が殺された事件も三次駅殺人事件と同一の流れの中にあるものと判明した以上、庄原署内に設けられた捜査本部は解散し、三次署内の捜査本部に統一されるべきだと主張し、大友署長を通じて県警本部に対処方を要請した。その結果、桐山の主張どおり、庄原署の捜査本部は解散して、そこに派遣されていた県警のスタッフは一時的に桐山の指揮下に入ることになった。  一方、野上巡査部長の処分は未決のまま、大友はとりあえず自宅謹慎を命じた。署内には同情論も多く、結果はともかくとして野上の事件解明に近づいた功績は認めるべきだという声があった。大友にしてからが、桐山に煽《あお》られっぱなしのような状態に不快感がなかったわけではないから、自宅謹慎という穏便な計らいで、精一杯、意のあるところを示したつもりなのだ。  とはいえ、池田謙二の死は元来手がかり難だった二つの事件捜査を、あらためて袋小路のどん詰まりに直面させることになった。庄原署の捜査も三次署のそれ同様、実りのないもので、二つの捜査本部が合同した割には、捜査の進展に見るべきものはなかった。 〈合同して解散か?〉  口さがない新聞はそんな書き方で、早くも捜査の先行きの暗さを予告した。 第五章 名探偵登場     1  野上は警察から歩いて七、八分の胡子《えびす》町に住んでいる。そこの市営住宅の四戸を警察が借りて、若い世帯持ち用の官舎として使っていた。朝夕の通勤時間には他の三人の同僚が野上の家の庭先を通る。小さな庭で、竹の棒を差しこんだだけのような垣根があるきりだから、部屋にいればいやでも顔が合う。まだ縁側のガラス戸を閉めきっておく季節ではなかった。  仲間たちはさりげなく挨拶して通り過ぎるし、野上の方もごく自然に振舞おうとしているのだが、どうもギクシャクして、妙な感じだ。子供の頃、いたずらをして学校の廊下に立たされた時の記憶が甦《よみがえ》ってくる。廊下を行き交う友だちの目にある同情やら憐愍《れんびん》やら嘲笑《ちようしよう》やら、そして一種の畏敬《いけい》やらがない交《ま》ざったものを、同僚たちのさりげない態度の中に再発見するような気がした。  いずれにしても、いい晒《さら》し物だ。野上自身でさえ体裁が悪いと思っているほどだから、妻の智子がいたたまれぬ想いになるのは無理もない。 「いったい、何があったの」と訊かれても、しかし野上は説明を避けている。仕事上のことは妻には関係がない、という気持ちもあるけれど、いざ説明しようとすると、その�情報量�のあまりの膨大さに、われながらうんざりしてしまう。何がカレをそうさせたか、というストーリーを描くには、まず八年前の二人の女子大生の研究旅行から解説を始めなければならない。そんなことはご免だ。第一、自分でも何がどうなっているのか、話の筋道がまとまっていない。いろいろな事実が頭の中に断片的に散在しているだけで、系統だった整理がされないまま放り出されてしまった。それを拾い上げ、組み立てようとするエネルギーがいまは湧いてこないのだ。  智子はやむなく、隣近所へ出向いては亭主の�失策�の話を聞いてきた。野上に言わせれば、そのどれもいいかげんな推量でしかない。野上でさえ説明に窮しているものを他人のカミさんが理解しているはずがなかった。おそらく捜査本部そのものが、自分の仕事の功罪を判定しきれずにいるのではないだろうか——と、野上は思った。そうでなければ、処分するのかしないのか、ヘビの生殺しみたいな状態をいつまでも続けるわけがない。 「あなたが高校の先生を殺したみたいなことを、言うひとがいるそうよ」  憤慨しながら、智子は(ほんとうはどうなの?)という目を野上に向ける。  ばかばかしい——と思う一方、なるほど、そういう見方もあるかもしれない、と妙に突き放した気持もどこかにあった。  久しぶりに、のんびりした時間がふんだんに取れたのだから、夫婦水いらずの団欒《だんらん》を、と思うのだが、どうもそういうわけにもいかないものらしい。 「おい、この際、子作りにでも励むか」  わざとお道化《どけ》て見せても、 「よくそんなこと言っていられるわね」  本気で憤るのである。  智子は躯つき全体もそうだが、ぷくっとしたオチョボ口で可愛げのある顔をしている。見合いの席でその顔を見ながら、(この娘となら、すぐ子供ができそうだな——)と怪《け》しからぬことを考えたのだが、実際にはそううまくはいかなかった。智子は見た目より胸も小さく、性的に、いくぶん未発達のままのような部分があるように、野上には思えた。結婚して六年になるのに、まだ子宝に恵まれないのはそのせいだと信じている。  三日経ち、四日経ちする内に、野上の胸の中に沈潜したものが生じてきた。あの騒ぎでいったん攪拌《こうはん》され混乱したデータが、ようやく体系的なすがたを取り戻そうとしているのだった。だが捜査官としての情熱《エネルギー》が失われている以上、いくら目の前に興味深い材料が転がっていようと、それを眺める目は傍観者のそれでしかない。せっかく収集したデータも、時が経てば色褪《いろあ》せてただの記録でしかなくなってしまうだろう。それを惜しむ気持と諦めに似た想いとが、次第に深まっていった。  そんなある日、昼食後の腹ごなしにと智子に言われて、垣根の修繕をしている野上の目の前に、スラリとした青年が立った。陽灼《ひや》けした顔をほころばせて、 「東京の浅見です、その節はどうも」  と人懐《ひとなつ》こく言う。スポーティなブルゾン姿がいかにも都会的で、まぶしい。 「ああ、あの時の……」  青年は正法寺美也子の友人・浅見祐子の兄、光彦であった。 「警察の方へうかがったら、こちらだと言われまして、厚かましく押しかけました」  爽《さわ》やかに言う。 「ちょっとワケがありまして、ここしばらく休養中なのです」 「そのことなら知っております。広島の新聞社に友人がいて、いろいろ噂はお聞きしました」 「そうですか、それなら話が分かりやすい」  まあどうぞ、と庭から縁先に入ってもらった。智子は台所から出てきて、いきなり客と対面する羽目になって、うろたえた。  紹介を済ませ、お上がりくださいと勧めるのを、浅見は「ここがいいです」と縁側に腰を下ろした。智子は慌てて座蒲団《ざぶとん》をあてがった。 「あれからずっとこちらの事件に関心があったものですから、友人から絶えず情報を仕入れていたのです。野上さんの追及に堪えきれずに高校の教師が自殺したということを聴いた時には驚きました。ついにやったか、という気持でした」 「みっともない話です」 「いや、そういう意味ではありませんよ。よくそこまで追いつめたと感心したのです」  野上はまじまじと浅見の顔を見た。 「そんな風に言われたのは初めてですよ」 「らしいですね」  義憤に堪えぬ、という顔を浅見はした。 「警察というのは、案外目のない連中が集まっているものだ、と思いましたよ。いや、失礼、あなたは別です」 「あはは、僕も同類です」 「それはないでしょう、この事件の真相を解けるのは野上さん、あなたしかいません。絶対に投げ出さないでいただきたいのです」 「それは、もちろん、僕だってそうしたいと思ってはいます。しかし、現実の問題として池田氏が自殺してしまったいまとなっては、捜査は完全に行き詰まったと考えるしかないでしょう」 「まさか、野上さん、あなた本気で高校の教師が自殺したなどと思っているわけではないでしょうね」  浅見は鋭く言った。 「それは、なんとも……」 「いや、だめです。そんなことを単純に信じる野上さんなら、最初から単独捜査など進めるようなマネをするわけがない。僕はあなたという方は、きっと食い付いたら離さないような刑事さんだと思って、それで東京からやってきたのです」  野上は驚いた。 「では、わざわざ、そのために?」 「そうです、野上さんが自宅謹慎になり、捜査本部から離脱したと聞いて、矢も楯もたまらなくなって飛んできました」 「しかし、なぜ、また……」 「決まっているじゃありませんか、このままではせっかく見えかけた真相が、また闇の中に消えてしまいますよ」  ほうっ……、と野上は溜め息を吐《つ》いた。 「浅見さん、あなたの熱意には感動します。それに、そこまで僕のような者を買ってくれる気持ちは嬉しいです。しかし正直言って、僕にはそんな力はありません。警察の組織力というものはあなたが考えておられるより、はるかに強大ですよ、その組織が及ばないものを、どうして僕のような一個人に可能だと思いますか。せいぜい気の弱い人間を自殺に追いやるくらいが関の山ですよ」 「ばかな!」  浅見の口をついて激しい言葉が出た。コーヒーを出しかけた智子が台所との間の襖の向うでピクッと立ち止まった。 「なぜそんなふうに、自ら負け犬思想に落ち込むようなことを言うのです。警察の組織は確かに強大かもしれない。しかし強大なるがゆえに、身動きがとれないということだってあるのです。それに、組織、組織と言ったところで、現場の第一線は捜査員という個人そのものじゃありませんか。個人の着眼、個人の推理を無視しては、所詮、警察の組織力も存在しえないですよ」  あっ、と野上は思い当たった。浅見の実兄は警察庁幹部のひとりなのだ。その浅見が警察機構の官僚主義的構造を批判するのは、自分の兄に対する反感か、もしくはコンプレックスの裏返しなのではないか——。 「おい、コーヒーを持ってこいよ」  野上は智子を呼んだ。智子は少し蒼褪《あおざ》めた顔でコーヒーを運んできた。香ばしい風が部屋の中から二人の男のあいだを通り抜けて、秋空へ立ちのぼった。  堵《ほ》っとした気分が流れた。 「少し昂奮しました、すみません」  浅見は上気した顔で笑い、頭を掻《か》いた。 「なんの……」  野上はコーヒーを啜ってから、真顔で言った。 「ひさびさ、心が揺さぶられましたよ。確かにあなたが言うように、このところの僕は自己否定にばかり気持ちが向いていたようなところがありますからね、そんなふうにカツを入れてもらった方がいいのです。しかしそれはそれとして、ごく客観的に見て、この事件は難しいということは事実でしょう」 「もちろんです、僕のような素人《しろうと》がとやかく言えるような簡単なものじゃないことは承知していますよ。ただ、じつを言いますとね、こんな生意気を言うのにはそれなりのお土産を持ってきているからなのです」 「おみやげ?……」 「ええ、いくら図図しい僕でも、何の材料もなしに本職のお巡りさんの尻《しり》を叩くような身のほど知らずはしません」 「では、何か新しい事実でも?」 「ええ、ほんとうはいつか野上さんが東京へ見えた時にお話ししていればよかったのですが、あなたがどのような人か分からない状態ではその勇気が湧かなくて……、しかし、あなたがそこまで真相に肉薄しておられるなら、この秘密はやはり打ち明けなければならないと考えました」 「ヒミツ?……」 「そうです、わが因循固陋《いんじゆんころう》な浅見家においてはね。しかし世間一般ではそれほど大げさなものではないかもしれません」 「何ですか、それは」 「それをお話しする前に、約束していただきたいことがあります」 「何を、ですか」 「それはですね、あなたの捜査を僕にも手伝わせて欲しいのです」  野上はあっけにとられた。 「手伝う?……、捜査を、ですか……」 「ええそうです、つまり、ちょっとした金田一耕助というところですね」 「しかし、民間人のあなたにそんなことをさせるわけにはいきませんよ」 「公式的には、ね。しかし、僕の方が勝手にあなたに情報を持ち込んだり、あなたの行く所に偶然居合わせたりしたって、誰にも文句はつけられないでしょう」 「それはまあ、そうですが……」 「よし、じゃあ決まった。それでは手はじめに、先日、東京でうかがったことも含め、これまでの捜査経過を整理することからお願いします」  浅見はポケットからメモ帳を取り出すと、シャープペンシルを右手に構えた。 「あはは……」と、野上は浅見のポーズを見ながら笑い出した。心底おかしかった。世の中には変わった人間がいるものだ、それにどうだろう、この若若しく、恐れを知らぬというか向こう見ずというか、一直線の行動力のみごとさは。これが�生まれ育ち�というものだろうか——。わが身にひき較べ、浅見の鮮やかな生きざまに、野上は羨望《せんぼう》を通り越して悲しいような想いを抱かされた。 「分かりました、いいでしょう。だがそれにはこの場所では具合が悪い、ともかく家の中へお入りください」  野上は浅見を安物のダイニングテーブルに落ち着かせると、用心のために縁側のガラス戸を閉め切った。智子は隣の部屋へ追いやられ、男二人だけが向かい合いに座った。  事件経過の説明には長い時間を要した。三次駅|跨線橋《こせんきよう》における正法寺美也子殺害事件の発生と、その直後行なわれた初動捜査が空振りに終わったことから始めて、桐山警部を主任捜査官に迎え、捜査本部が設置されたこと。事件捜査の主力は列車乗客の洗い出しにかかり、野上と石川だけが、脇道とも思えるような、美也子の足取り調査を振り当てられたこと。美也子の母と兄と上司に対する事情聴取で、美也子が�後鳥羽法皇の道�を旅したと知ったこと。  以上のような事件の端緒の部分を語るだけで、優に三十分を超えた。  さらに、尾道—福山—三次とUターンした、美也子の謎の行動。島根県仁多町からスタートした足取り調査。府中で富永から聞いた�緑色の本�を美也子が所持していなかった事実。そして、富永の死——と野上の話は進んだ。 「殺された?……」  浅見は弾かれたように、顔を挙げた。 「ご存知じゃなかったのですか」 「ええ、そのことは初耳です。新聞社の友人からも、その事件のことは聞いていません」 「そうかもしれません、事件は庄原署管内で起きたものだし、ずっと本事件とは関係がないものとされていましたから」 「なるほど、確かに二つの事件を関連づける根拠はないといえばない、ですが……」  浅見は思索的な眸《め》で、遠い空間をみつめた。 「しかし僕にはそうは思えなかったのです。それで、富永が言っていた�緑色の本�が何なのかを洗い出す決心を固めました。そして、東京であなたと会った翌日、尾道の譚海堂書店を探し当てました。問題の本——『芸備地方風土記の研究』——はこの店で、八月九日の朝、正法寺美也子さんに売られていたのです。ところが、僕より前に同じようにして、その事実を突きとめた男がいました」 「富永、ですか」 「そうです。しかも富永は本の元の所有者が三次の高校教師・池田謙二であることを訊き出し、その後、池田の話によれば、九月八日の夜、池田を訪ねる約束をしています。だが富永はその夜半から翌未明にかけて、庄原市七塚原で殺されてしまったのです」 「つまり、美也子さんとまったく同じような軌跡を辿ったことになりますね」 「そのとおりです。だから、当然、池田がこの二つの事件の鍵《かぎ》を握る人物であると考え、池田を呼び出して追及することにしたのです」 「ちょっと待ってください。そこのところで僕には二つ分からない点があるのです。ひとつは、なぜ野上さんは先方を訪ねずに、池田を呼び出したのか……」 「それは、池田の方からそうして欲しいと言ったからです」 「なるほど、それからもうひとつの疑問は、なぜ野上さんお独りで捜査に臨んだのか、ということですが」 「うーん、そのことを言われると、実は辛いのですよ」  野上は苦笑した。 「こんなことは莫迦《ばか》げていて、浅見さんには理解できないことだと思いますが、じつは、犯行の動機はごく幼稚なものです」  野上はわざとお道化《どけ》た言い方をした。「要するに、桐山警部のハナをあかしてやろうという、ね……」 「なるほど」と、浅見はあまり驚いた風には見えない。 「いや分かりますよ、僕もひょっとするとそういうことじゃないかと思ってました。それに、その狙《ねら》いは充分、達せられたんじゃありませんか。野上さんの推理の正しさは池田の死によって立証されたわけだから、桐山警部は明らかに一本取られた形でしょう」 「そうなるはずでしたが、しかし結果はこの体《てい》たらくです。いくら一本取ったところで、敗けは敗け。もっとも相手はエリート警部ですからね、初めから勝ち目がないことは決まっていたのです」 「何を言うんです」  浅見はキッとなった。「まだ勝負はこれからですよ。エリートが何です、最後に笑う者が真の勝利者だ。僕はあなたの方に賭《か》けます」  野上は何も言わず、頭を下げた。エリート中のエリートと言ってよい兄を持つ浅見の口から、こういう励ましを言われることに一種複雑な想いが湧いた。 「ところで野上さん、問題の『芸備地方風土記の研究』ですが、その本の行方はいまだに分からないのですか?」 「ええ、まったく不明です。僕なりに三次駅を通じて拾得物の中にそういう本がないかを調べてもらっているのですが……」 「それにしても、美也子さんはその本になぜそれほど執着したのだろう……、かつて読んだことがある本だとしても、わざわざ元の持ち主を訪ねるような熱の入れ方というのは普通ではない。こんなことを言っちゃ失礼かもしれないが、やはり彼女には精神的な後遺症が残っていたのですかねえ」 「そのことは僕にもよく分かりません。ただいずれにしても、その本との出会いが彼女を池田に会うことへ駆り立てた事実だけは動かせないと思うのです。少なくともその本に、彼女と浅見さんの妹さんが研究テーマにした後鳥羽法皇伝説が載っていたことで、眠っていた記憶に触れるものを感じたでしょうし、その朧《おぼろ》げな記憶をさらに甦らせようという想いで三次へ向かったことは充分、考えられるのではないでしょうか」  事件の概要を説明し終わって、野上は酔いに似た満足感と喉《のど》の渇きをおぼえた。 「おい、智子、お茶を淹《い》れてくれや」  隣室にいるはずの智子から返事がない。 「なんや、おらんのか……」  立って襖を開けると、智子は泣き濡《ぬ》れた眼を拭き拭き、照れ臭そうに作り笑いをした。 「なんや、どうしたんじゃ」 「ううん、なんでもない」 「なんでもない言うて、おまえ……」 「ただね、男の人って偉いなって、そう思っただけなの」  いそいで野上の脇をすり抜け、台所へ向かった。 「アホか……、みっともない」  野上は浅見を見て、苦笑した。浅見も擽《くすぐ》ったそうに微笑していた。 「いや、奥さん、偉いのは男でなく、おタクのご主人ですよ」 「何を言うんですか、アホらしい」  男たちは声をあげて笑い、智子は幸福に泪《なみだ》ぐんでいた。     2 「さて、事件の真相解明に手を染めることにしましょうか」  茶を啜り、煙草を一服吸い終えると、浅見はゆったりした口調で言った。 「まず、わが捜査陣としては、美也子さんと富永と池田が殺されたのは、すべて同一犯人、または犯人グループの仕業だと仮定するところからスタートすることにしましょう」 「待ってください、池田は自殺の可能性も強いのではありませんか」 「うーん、僕はそうは思いませんが、まあいいでしょう、池田の場合は半分半分《フイフテイ・フイフテイ》としますか」 「そんなら結構です」 「それでは第一の事件。まず、美也子さんが跨線橋の上に三十分もの間、佇んでいたのは、池田とその場所で落ち合う約束だった、と考えていいでしょうね」 「いいでしょう。もっとも、池田は自分の下宿で美也子さんから電話がかかってくるのを待っていた、と主張しましたがね」 「それは無論、池田の嘘でしょう。池田が下宿の連中とテレビを見ていたというのは、明らかにアリバイをはっきりさせる目的です。池田は美也子さんから最初の電話を受けた直後に何者かに連絡を取り、彼女からの二度目の電話の時、三次駅の跨線橋を待ち合わせ場所に指示したに違いありませんよ」 「あっ……」と、野上は気が付いた。 「そういえば、池田は十一時半頃、一度煙草を買いに外出したと言っていたが、それは共犯者との連絡のためだったのか」 「そうですか、そんなことがありましたか。それでは決定的です」 「すると、池田がテレビにしがみついている間に、殺人者が三次駅へ向かっていたというわけですね」 「そういうことです」 「何者でしょう、そいつは」 「とにかく地元の事情に詳しい人間でしょうね。とくに跨線橋の上に一瞬の空白が生じるなんてことを知っているのは、ローカル駅の特徴を熟知していなければ思い付きませんよ。たとえば僕などは、駅の跨線橋なんて、しょっちゅう人が通っているようなイメージを持っていますからね。それと、列車の運行にも詳しいはずです。広島行列車でやってきて、電撃的に美也子さんを襲い、ふたたび同じ列車で立ち去った、という鮮かな手口は、それが殺人者でなければ賞讚《しようさん》しますよ」 「すると、国鉄職員でしょうか」 「まさか、犯人は少なくとも国鉄関係者ではないでしょう。真先に疑われるような場所を選ぶわけがないし、それに、駅員に顔を知られている危険性があります。想像できる犯人像は、地元に馴染《なじ》みのない、ごく平均的な容姿の持ち主で、一見サラリーマン風の人物、といったところでしょう」 「驚いたなあ、まさにそのとおりの人物が、目下のところ捜査線上に浮かんでいるのですよ、凄《すご》いもんですねえ」 「そんなに驚くことはありませんよ、要するに人の記憶に残らない人物像を言っただけなのですから」  なるほど言われてみればそのとおりだが、野上は浅見の才能の片鱗を見たと思った。 「ところで、犯人の逃走経路ですが、じつは今日こちらへ伺うのに、広島まで飛行機で来て、広島からは芸備線だったわけですが、途中にかなりの無人駅がありますねえ」 「全部で七つあります」 「七つも、ですか。それじゃ、まるでザルに水を入れたみたいに抜け穴だらけですね。そっちの方で犯人の足取りを追うのは不可能かもしれない」 「だと思います、これまで集中的に捜査をして、やっと幽霊のように朦朧《もうろう》とした犯人の影が浮かんだだけで、その男がどの駅で消えたのかさえ掴めないのですから」 「かえって脇道のはずだった野上さんの捜査の方が成果を挙げたのだから皮肉なもんじゃありませんか。その意味から言うと、桐山警部の捜査指揮にだって、三次署の初動捜査のミスに匹敵するような齟齬《そご》があったと言うことだってできますよ」 「しかしそれは結果論ですから。やはり警部の正攻法的な捜査の進め方や、発想の鋭さには、さすがと思わせるものがあります」 「ほう、野上さんはライバルに対して寛大ですね」 「ライバルだなんて、そんな……」 「まあいいでしょう。ところで本題に戻って、この事件にはいろいろ謎の部分が多いのですが、まず第一に美也子さんを殺さなければならなかった動機は何だったのでしょう」  浅見は急にきびしい貌《かお》を造った。柔らかな口調で話すときとは別人のような、怕《こわ》いほどの鋭さを湛《たた》える。これが役者なら、すばらしくシリアスな名演技といったところだろう。 「この事件には、犯行を使嗾《しそう》した池田謙二と、もうひとり実行者が存在する。そして美也子さんを殺すことはその二人にとって共通の命題《テーゼ》だったわけです。それはいったい何か——ということ、これが第一の謎。  第二に、美也子さんが持っていた本はどこへ消えてしまったのか——ということ。犯人がなぜ、その本を持ち去ったかも大きな謎ですが、本の行方が知れないのも不思議でならないのです。犯人は譚海堂書店の紙袋ごと本を盗んだわけでしょう、かりに金目の物が入っていると思って盗んだのだとしたら、中身を知ったとたん、どこか屑カゴにでも捨てていますよ。そうではなく、最初から本を盗む目的だったとすると——その公算が強いのですが——その本の処分について、かなり神経を使うのではないでしょうか。なにしろ、それは犯行を裏付ける唯一の物的証拠というべき代物《しろもの》ですからね。分厚くて立派な本をいざ処分するとなると、これは想像以上に厄介なものです。ナイフや拳銃《けんじゆう》などの凶器の方が、はるかに簡単です。海でも川でも、放り込んでしまえばそれでOK。その点、本というヤツは始末が悪い。いつまでも持ち歩いていれば人の記憶に残るし、無闇な場所に置くのも危険。一刻も早く安全な場所に隠すために、犯人はどういう手品を使ったのか、ぜひ知りたいものです」 「確かにこの事件は複雑で、犯人ばかりか被害者の行動も謎めいています。その点、富永氏の事件の方は、前の事件の延長線上で起きたものだけに単純と言えますね」  野上の言葉に、浅見は首をひねった。 「いや、僕はかならずしもそうは思えないのです。確かに動機という点は問題ないでしょう。しかしです。富永氏は相手が殺人者であることを充分承知の上で接近を図っているわけですよね。その目的はおそらく恐喝めいたものだったと思いますが、とにかくそういう目的で危険な相手に近づこうとするからには、それこそ万全の注意を払っていたに違いありません。それを、会社の人たちに行先も告げずに、単身、敵地に乗り込むというのは正気の沙汰《さた》じゃありませんよ。僕はこっちの事件の方こそ、技術的な意味で、われわれの想像を超えるような離れ業を犯人一味が演じたように思えるのです」 「うーん……」  野上はまたしても浅見の才智《さいち》に舌を巻いた。机上の空論と言うけれど、この青年はまったくの想像だけで、専門職の自分らでさえはるかに及ばないような鮮やかな推理を、簡単にやってのけてしまう。 「さて次の池田謙二の死ですが、一応これは自殺と他殺と両方の可能性があるとしますか。お話の様子では、この先生は相当の小心者だったようだし、一連の事件で神経もだいぶ参っていたらしい。そこへもってきて野上刑事の執拗《しつよう》な調べに責められ、もはや逃れられないと観念して自ら死を選んだ、というストーリーは充分考えられます。もしそうだとすれば共犯者はさぞかし堵《ほ》っとしたことでしょう。そして、そのことが同時にこの場合の殺しの動機であるわけです。池田氏が殺されたものだとすると、この時の犯人はよほど池田氏と親しい人物でなければなりません。捜査の専門家じゃないからよく分かりませんが、縊死《いし》を装った殺人というのは、相手がまったく気を許して背中を見せるような間柄でないと難しいのではありませんか。殺しの動機を持ち、しかも池田氏と親しい者といえば、共犯者以外は考えられないことになります」 「すると、その犯人は美也子さんを殺し、富永氏を殺し、池田を殺したというわけか。殺人鬼のようなヤツですな」 「いや、それは一概に断定できませんよ」  浅見はまたも異を唱えた。 「池田氏が殺されたものとすれば、犯人は少なくとも第一の事件の男とは別人です」 「なんですって?」  野上は驚いた。 「すると、殺人犯は二人いるわけですか」 「そうです。つまりですね、池田氏を殺したのは、かなりの大男だと考えられるからです。そうでもなければ、首にかけたロープを引き上げる作業を瞬時にやることは困難でしょう。ところが三次駅の殺人は、ごく普通の目立たない、おそらくサラリーマン風の人物による犯行だったはずです。大男が空《す》いた列車に乗っていれば、いやでも目につくでしょうからね」 「すばらしい!」  ついに野上は手放しで感嘆の声を挙げた。 「では、犯人グループは池田を含めて三人ということですか。池田の交友関係といったところで大したものじゃなさそうだし、捜査本部が総力を挙げて追えば、早晩、ホシの見当はつきそうですね」 「さあ、どうですかねえ、僕はそう簡単に足を出すような相手ではないと思いますよ。しかしまあ、捜査本部のやることにケチをつけようとは思いません。われわれはわれわれの方法でやるだけです」  浅見はそう言うが、もし自分が現場復帰ということになれば、今度こそ単独捜査などというわけにはいかないだろう——と野上は思った。それとも、そんな事は起きないと、浅見は信じてでもいるのだろうか。 「ところで浅見さん、そろそろあなたの方の�秘密�というヤツを聴かせてくれてもいいのではありませんか」 「そうですね、お話ししましょう。しかしこれはちょっと奥さんにはあまり聴かれたくない話なので、恐縮ですが、耳に栓をしていてください。いや、形式だけでいいのですが……」  冗談めかして言ってから、浅見の顔に次第に憂愁の翳《かげ》りが浮かんできた。 「話は八年前に遡《さかのぼ》りますが、例の島根県仁多町で起きた土砂崩れ事故、あの事故で僕の妹は死に、美也子さんは頭などを打って記憶喪失になったわけですが、その時に、じつはもうひとつの事実が隠されたままになってしまったのです。  あれは夏の盛りで、台風が通り過ぎた翌日はフェーン現象によってかなり気温が上がりました。まだ道路はズタズタでしたし、やむなく妹は現地で荼毘《だび》に付し、遺骨にして帰京することになったのです。それで、妹を納棺する前に、せめてもの心尽くしとして、泥にまみれた衣服を新しい物に着替えさせてやりました。母と兄、それに僕の三人で、死後硬直のきた妹を裸にし、全身を布で拭いたのですが、妹の美しさに僕は泣けて泣けてしかたがありませんでした。  ところがです。その時、母が『まあ、なんということを……』と叫んだので、僕と兄は母の手元を見ました。母は慌てて隠そうとしたのですが、僕らは|それ《ヽヽ》を見てしまったのです。妹の下腹部とパンティには、明らかな性行為の痕跡が残っていました」 「なんですって?……」  野上は顔色を変えた。 「それは間違いないのですか」 「間違いありません、当時僕は大学院に行っていて、いまより多少マジメ人間でしたが、その程度のことは見分けがつきましたよ。  その時の母の狼狽《ろうばい》ぶりときたら、僕は後にも先にも、あんな風にとり乱した母の姿を見たことがありません。 『このことは誰にも言うのじゃありませんよ』と母は僕らに命じました。兄もそれを了解しました。兄というのは両親をそのまま小型化したような、ひどい教条主義者で従順な息子なのです。僕はしかし、このことは一応警察に届けた方がいい、と主張しました。母と兄は青くなって慍《いか》りましたね。『浅見家の名誉にかかわる問題です。こんなふしだらが知れたら、お前や佐和子(下の妹です)の縁談ばかりか陽一郎さん(兄です)の将来にどれほど悪い影響を及ぼすかもしれない』と言いましてね。それだけなら、僕は主張を続けたかもしれませんが、さらに、『正法寺様のお嬢様にもご迷惑がかかりますよ』と言われるに至って、沈黙するよりしようがなかったのです」 「そうでしたか……」  野上は溜め息をついた。 「よく話してくれました。このことは僕の頭の中にだけ仕舞って置くことにしましょう」 「ありがとうございます。しかし野上さん、おそらくそういうわけにはいかなくなると思いますよ」 「えっ、なぜ、ですか……」 「今度の連続殺人の遠因は、じつはこの八年前の事故にあると思うからです」  浅見の考えていることが、野上には理解できなかった。 「いったい、それはどういうことですか」 「僕が野上さんをお訪ねした最大の理由はそこにあるのです。僕の考えに間違いがなければ、連続殺人の真の動機は何かということも、それに犯人像もはっきりするはずです」  浅見は澄んだ眸《め》で真直ぐ野上の顔をみつめながら、自信に満ちて、言った。  その時、野上の脇にある電話が、けたたましい音を立てた。受話器を取ると森川警部補の声が飛び出した。複雑な状況なので、いつものような気さくさはない。 「野上君のところに、尾道譚海堂から何回も電話があったらしい。下の交換が休んでいると言って断わっていたのだが、毎日のように電話があるんで、気になって俺《おれ》のところへ知らせてきた。電話してみたらどうだ」  森川はそう言い、最後に「おい、無茶するなよ」と、ひと言付け加えた。  野上はすぐに譚海堂の番号をダイヤルした。例のオヤジの不機嫌そうな声が返ってきた。 「三次署の野上ですが、電話をくれたそうですね」 「ああ、野上さん、くれたそうどころじゃないですがの、何回電話しても休みだ言うて、警察ちゅうところはそがいにのんびりしとるんですかの」 「いや、ちょっと不幸がありましてね。それで、用件は何です?」 「じつはですな、あの後、気になって新聞を見たんじゃが、それでびっくりしてもうてから、あの三次で殺されたちゅう女の人、正法寺いうんですな。ところがですな、例の『芸備地方風土記の研究』ちゅう本の裏トビラに蔵書印が捺してあったんじゃが、その名前がやはり正法寺——『正法寺家蔵書』となっとったんですがの」 「なに!……」  野上は電話に向かって、怒鳴った。     3  翌朝、野上と浅見は仁多町へ行くことになった。無論、これは浅見の提案によるものである。三次から仁多(出雲三成)へは国鉄の急行を利用すれば二時間ちょっとで行けるが、やはり浅見の希望で、美也子や祐子が通った、高野町—王貫峠越えのコースをバスで行くことにした。  三次から高野までバスで二時間の行程だ。峠をひとつ越えてしばらく行くと視界がひらけ、盆地の端に肩を寄せ合うように甍《いらか》を連ねている小さな町が見えてきた。終点のひとつ手前が仁多行のバスが来る十字路で、二人はそこで降りた。  乗り継ぎまでさらに二時間も待たなければならない。  浅見はふと思いついたように、四ツ角にあるカメラ店に入って行った。理髪店兼業という変わった店で、丸顔に眼鏡をかけた陽気そうな男が店番をしていた。  浅見はお愛想に要りもしないフィルムを買ってから、訊いた。 「この辺には後鳥羽法皇の事蹟が多いそうですね」 「ええ、多いですよ。そこの功徳寺さんには法皇がお泊まりになった時にお使いなさったお箸が遺《のこ》っておりますしな」 「すると、そういう歴史を勉強する学生なんかもよくやって来るのでしょうね」 「まあそう仰山は見えませんけどな、夏休みのレジャーを兼ねてポチポチおいでになりますな」 「そういう人たちは、ここから王貫峠を越えて出雲へ抜けるケースが多いのですか」 「そうですな、逆のコースもありますが、大抵の人は出雲へ抜けられるようですな」 「ところで、学生は女性と男性とではどちらが多いものですか」 「そりゃあんた、女子大生が圧倒的に多いですな。そういうロマンチックな話に弱いんと違いますか」 「しかし男の学生も来るのでしょう」 「ええ、来よることは来よりますが、女子大生と違《ちご》うて、独りで見える、まじめな人が多いですな」 「なるほど、そういうものですか」  浅見は礼を言ってカメラ店を出た。それから二人は、店主が教えてくれた功徳寺へ、崖際《がけぎわ》の坂道を登って行った。訪れてみると、変哲もない古ぼけた寺だった。 「こんな遠くまで、祐子たちは来たのですねえ……」  本堂の階段に腰を下ろして、眼下に展がる町並とその向こうの田園やなだらかな山山を眺めながら、浅見は感慨深げに言った。 「若くて、希望に満ち満ちていたいのちが、突然に消えてしまうのだから、人間なんて儚《はかな》いものです」  野上は答えようがない。黙って浅見と同じように風景を眺めたまま時間が経過した。 「野上さん、いま、そこの長い坂道を登りながら、どんなことを考えておられました?」  沈黙の中から突然に言い出されて、野上は面食らった。 「どんなことって……、そうですなあ、しんどいこっちゃと思いましたが、そんな答えじゃいかんのでしょうねえ」 「ははは、いいのですよ、僕もまったく同じことを考えていたのですから」 「はあ……」  浅見の思考に野上はついて行けない。 「男のわれわれでもしんどい坂を登ったのですから、祐子も美也子さんもずいぶん元気だったわけですよね」 「そう、でしょうねえ」 「その元気な二人がですよ、なぜあの時、逃げることができなかったのでしょうか」 「?……」 「民宿の娘さんが声をかけた時、すでに二人は洋服を着ていたのですよ。それなのに祐子は美也子さんに手を引かれても歩けないような有様だったそうです。なぜ、そんなだらしのないことになったのか……」  はげしい語調に野上が振り向くと、浅見はギラギラする眸で前方の空間を見据えていた。 「それに、あの祐子がなぜあんな汚らしいセックスをしたのか。それも、すぐ近くに美也子さんが居たというのに、です」  何を言おうとしているのだろう——と、野上はただ茫然《ぼうぜん》としているしかなかった。  浅見はしかし黙りこくった。激情が全身からすうっと抜けてゆくのが分かった。やがて腕時計に視線を落とし、 「そろそろ行きましょうか」  穏やかに言って、立ちあがった。  王貫峠を越える頃から雲行きが怪しくなって、いかにも山陰へ抜けたという実感があった。仁多町へ着くと同時に霧雨が降り出した。雨やどりを兼ね、ひと休みしようと、洒落た洋館風の店に入った。入口に大きなカウベルがぶら下がっていて、二人を間の抜けた音で迎えた。 「先刻《さつき》の話ですが、浅見さんはまさか妹さんが殺されたと考えているのではないでしょうね」  コーヒーを半分ほど飲んでから、野上は訊いた。 「いや、そうは思ってはいませんよ。民宿の人たちが見た時も、妹は立ちあがろうとしていたそうだし、検視の結果も死亡時刻は事故のずっと後でしたからね」 「そうですか、それならいいのです」 「ただ……」  浅見はなかば独り言のように、 「結果的に、殺されたも同然、というようなことがあったかもしれない……」 「え?……」  意味が分からず、野上はその先を聴こうと身構えた。しかしそれ以上、浅見はその話をする気がないらしい。  雨は止みもしない代わり、強くなる気配もなかった。二人は全身に霧をまぶしながら歩いて行った。  美女原の小野家には例の家つきの嫁と、その母親がいた。二人の用向きを聞くと、あまりありがたくない顔を露骨に見せた。 「もうあの事故のことは忘れてしまいたいもんで」 「申し訳ありません」  浅見は深ぶかと頭を下げた。それには母娘《おやこ》も好感を抱いた様子だ。 「刑事さんも一緒だし、知っていることは何でもお話しせねばなりますまいがの」  そんな言い方で、ともかく二人を招じ入れてくれた。 「早速ですが、事故のあった晩には、妹たち二人のほかに、お客さんはなかったのでしょうか」 「いいえ、ありましたよ」 「それは女のお客さんですか」 「いえ、女のお客さんならみなさん離れに泊まっていただいておりますがの。ほかは全部男の方でしたがの」 「全部、と言われると、何人ですか」 「さあ、何人だったですかの、二人か三人と違うかしら」 「二人ですか、三人ですか」 「そう言われても、なんせ八年前のことですけんの、よう憶えとらんですわ」 「あなたはいかがですか」  浅見は娘の方に訊いた。若い母親は今日も赤児を抱いている。 「確か三人やったと思いますけんど」 「それはどういう人たちでした、学生さんですか」 「はあ、学生さんみたいでしたわ。正直言うたら、ほかの時とゴッチャになってしもうて、よう分からんのですけど、ウチに泊まりんさるお客さんはほとんど学生さんでしたから」 「その晩の学生さんの特徴を何か憶えていませんか、大きいとか小さいとか」 「ああ、そういえば、大きい頑丈そうな人と小《ち》っこい痩《や》せた人とがいましたっけの」 「もうひとりはどうです」 「さあ、もうひとりのお客さんのことは……、確かにいんさったけどが、どんな人やったか思い出せませんねえ」 「その男の人三人はグループでしたか。一緒の仲間でしたか」 「さあ、どないやったかしら。べつべつだったような気もするし、二人と一人だったかもしれんし……、でも、三人で仲よう喋っていんさったけん、グループだったかしら……」  娘の記憶もその辺になってくると、すこぶる曖昧《あいまい》だった。 「ところで、その三人の男性と、妹たちは話をしたりしたのでしょうか」 「そりゃあ、しましたがな、お食事するお部屋も一緒やし、学生さんらは気さくで、すぐ仲ようなりはるし、それに歴史の勉強……、そうや、そのお客さんらは、みなさん伝説か何か、歴史の勉強で旅行してはったとかで、話もはずんでいなさったようですの。何やらめずらしい本があるとか言うて、離れの方へ行かれて遅うまで話し合《お》うとられました」 「遅くまで?」 「遅いいうても、一一時頃までですがの。テレビのニュースで台風のことを聴いて寝よう思うた時、男のお客さんらも二階のお部屋の方へゾロゾロ行きなさったけん」 「三人一緒に、ですか」 「ええ、三人一緒に『お寝《やす》み』言うて行きよりました」 「その時、離れの二人はどうしてました」 「さあ、すぐ寝《やす》みんさったの違いますか。それで男のお客さんも引き揚げられたのやと思うとりましたが」 「それから事故の発生するまで、誰も起きてきた様子はないのですね」 「ええ、ウチはお父さんが前の川の様子が心配じゃ言うてずっと起きよりましたけんど、あとで、土砂崩れの前にお客さんを起こしに行く時、よう寝てなさるみたいやから、はっきり起きるまで確認せえ、言いましたがの」 「しかしそれでは、途中で起きたかどうかは分かりませんね」 「そりゃまあそうですけんど……あの、なんでそんなことをお訊きになるのですの」 「いや、たとえばですね、夜中に母屋《おもや》から離れの方に誰かが行ったというようなことはなかったか……」 「そんなこと、ありませんがの」  ずっと黙っていた母親が強い口調で言った。 「そういうことはお父さんがとてもやかましい人でしたけんの。ウチはアベックのお客さんは泊めんかったぐらいですわ」 「いや、失礼なことを言いました。どうぞ気を悪くしないでください」  浅見はあくまでも低姿勢だ。 「最後に、事故のあと、三人の男の学生さんはどうしたのでしょう」 「さあ、どうしんさったか、よう憶えてませんけど。なにしろえらい騒ぎでしたけんね、いつ帰って行かれたか、幸江、憶えとるか」  訊かれた娘も、首を横に振った。 「名前の控えのような物はありませんか。宿泊者名簿か何か」 「それが、民宿を廃《や》める時に、お父さんがそういう物を全部燃やしてしまって、寄せ書きやら記念品やら仰山ありましたがの」 「そうですか、分かりました、たいへんありがとうございました」  丁重に礼を述べて、二人は美女原を後にした。 「やはり思ったとおりでしたよ」  歩きながら、浅見は言った。そう言われてもまだ野上にはピンとこない。 「つまり三人の学生の内の小柄なヤツが池田謙二で、大きいヤツが池田を殺した男ということですか」 「ええ、もちろんそれはそうなのですが、それよりですね、その晩、民宿の離れで何があったかが、です。おそらく三人の学生は祐子と美也子さんに睡眠薬を飲ませた上で、祐子を犯したのに違いありません。事故の時妹たちが洋服を着ていたのは、|着替えた《ヽヽヽヽ》のではなく初めから|着たまま《ヽヽヽヽ》だったのです。だから民宿の娘さんに急を報《し》らされて目覚めはしたものの、祐子は体の自由がきかなかった。ヤツらは間接的に祐子を殺したも同然です」  憎悪に満ちた言葉を、浅見は平板な口調で言った。 「八年経って、正法寺美也子の名を聞いた時には、池田は震え上がったでしょう。正法寺というのはめずらしい名前です。小心者の池田はかつて犯した罪のことを片時も忘れられずにいたでしょうから、まるで幽霊が自分を取り殺しに来るぐらいの恐怖を感じたとしても不思議はない。しかもヤツは美也子さんの本を借りたまま、事故を迎えたので、ひとしお罪悪感に戦《おのの》いていたはずです。  美也子さんが池田を訪ねようとした目的は、おそらく野上さんが東京の精神医から聴いてきたように、自分の記憶の欠けた部分を埋めることだったのでしょう。だが池田側から見れば、かつての犯罪を糾明するためにくるとしか考えられない。社会に出て数年間、過去の悪夢のことは忘れ、平穏な日日を送ろうとしていた、池田や、池田から連絡を受けた仲間たちの恐怖は想像を絶するものがあったに違いありません。  しかし、それにしてもその恐怖の最中《さなか》、瞬時にして三次駅跨線橋上での殺害を思い浮かべた人物はタダ者ではない。美也子さんの口を永遠に閉ざし、問題の本の存在を隠蔽してしまえば、恐怖の根元は取り除かれると判断し、実際にそのとおりにしてみせた才能は、狡智《こうち》に長《た》けた悪魔を連想させます」  浅見は足を停めた。見えざる敵に対するように、陰惨な色を浮かべた双眸で天空を睨んだ。だが憎悪の色は一瞬にして消えた。 「しかし、相手が悪魔なら、われわれは神となってそれを裁かなければならない。そうでしょう。野上さん」  莞爾《かんじ》として見返った浅見が、野上にはそれこそ神の貌《かお》に見えた。     4  強くなってきた雨足に追われるように出雲三成の駅に駆け込むと、丁度、広島行の改札が始まったところだった。野上はそのままの勢いで、警察手帳を示して改札口を通った。一瞬、浅見が警察官でないことを失念していた。浅見は出札窓口の前で、ちょっと意表を衝かれた表情を見せ、それから一人分の切符を買った。 「やあ、いつもの癖でうっかりしました」 「そうでした。僕も気がつきませんでした。警察官特権というヤツですね」 「どうも申し訳ないみたいですな」 「いや、そんなことはありませんよ。ちょっと驚いただけです。考えてみれば、今回、ご一緒していただいたのもその捜査権を頼りにしたかったのですから」 「実際、こいつがなければ、僕のような無能な人間は何もできません」  野上は手帳で左掌をピタピタ、叩いた。  ところが、その�特権�を野上の手から剥奪《はくだつ》する決定が、その頃、県警から三次署長あてに届けられていたのである。 〈停職一か月〉  これが野上巡査部長に科《か》せられた処分の内容であった。 「ばかな……」  大友署長は佐香次長が同席しているのも忘れ、思わず呟いた。予想をはるかに超える重い処分だ。せいぜい戒告程度、と踏んでいたし、提出した報告書の内容からもそれが妥当な線だと信じていた。 「これじゃきみ、野上がかわいそうだよ」  佐香に向けて憤懣《ふんまん》を洩らした。 「私もじつは、そう思いました」  報告書の文面は佐香が書いている。好好爺《こうこうや》然とした顔が硬く、曇っていた。 「どういう事情で、このような判断が下されたのか、ちょっと腑に落ちません」  柔らかい口調だが、言外に含みを感じさせる。大友もそれを敏感に察知した。 「指揮系統の乱れをことさら重視した判断となると、彼が、動いたかな……」 「たぶん……」  老練同士、呵吽《あうん》の呼吸で意志が通じた。桐山警部が県警刑事部長の稲垣の�手飼い�であることは隠れもない。桐山にとって野上の独走がいかに不愉快なものであったかを考えれば、こういう処分が出されたのも、あながち頷けなくもなかった。 「やむをえんじゃろうねえ」 「はあ、野上君のところへは私が行って、よく因果を含めておきましょう」 「そう、それがいいね、明朝いきなりじゃ、ショックがきつすぎるだろうから」  その夜、佐香が野上の家を訪れた時、浅見はすでに駅前のビジネスホテルへ引き揚げたあとだったから、この新事態は野上からの電話で知ることになった。 「停職?……、まさか……」 「僕もまさかと思いましたがねえ、昼、言っていた冗談が本物になりましたよ」 「そんな呑気《のんき》なことを言って……僕はあなただけが頼りなのですから」 「まったく腑甲斐ないことで、申し訳ないです」 「しかしおかしいですね、この程度のことで停職とは……それも一か月も……」 「それは僕も納得がいかないのです」 「野上さん、これはもしかすると一服盛られたのかもしれませんよ」 「一服?……」 「あなたがその、桐山とかいう捜査主任とトラブっていたことと無関係じゃないですよ」 「ええ、確かにそうかもしれません。僕もうすうす、感じてはいました」 「だとすると怪《け》しからんですね。私情を公務に持ち込むなんて」 「いや、かりにそうだとしても、非はあくまでもこっちにあるのですから、文句の言えた筋合いではありませんよ」  野上は快活を装って、お休みなさい、と電話を切った。  翌日、浅見は野上にも黙って、広島へ向かった。これから自分がしようとしていることはきわめて不本意なのだが、この際、そんなことを言っているわけにはいかない。いま野上と彼の所有する�捜査権�を失えば、身動きができないことになる。  三次を一〇時二九分に出る普通列車に乗った。広島まで一時間五十分——、無為で退屈な時間を空費するのが惜しい気がするが、こういう旅そのものは浅見は嫌いではない、駅ごとに車内の顔触れが少しずつ変わったり、閑散とした駅で客と駅員が言葉を交わしたりする風景には、都会では見られない�鉄道�の原点を感じさせられる。  無人駅というのも面白い。殺風景なプラットホームの向こうに、バス停などによくある待合小屋のような小っぽけな駅舎らしきものが建っている。ホームに降りた客は——せいぜい、一人か二人だが——車窓の客たちの視線を意識してか、少し気羞《きはずか》しげな面持ちで、その癖、胸をいくぶん反らせ気味にして歩いて行き、線路を渡って�小屋�の中を通り過ぎる。その時、改札口の脇の箱に切符を落とすのが見える。それは大勢の目に不正のないことを示しているようでもあった。気のせいか、車掌が発車合図の笛を吹くのは、その様子を確認してからのようにも思えるのだ。 (ことによると、車掌も、ずっとあの客を見送っているのかもしれない——)  そんなことをぼんやり考えている内に、浅見は、三次駅殺人事件の犯人が無人駅から逃走したという仮説は、むしろ捨てるべきではないか、と思えてきた。車掌の目はともかくとして、退屈な乗客たちの視線は恰好の�目標�をみつけて下車客を追い続けるだろう。用心深い犯人が、衆人環視の中に身を晒すような無謀をするわけがない。このことに気付いただけでも、この�小旅行�は無駄ではないような気がしてきた。  広島まであと二つの戸坂駅を発ったところで車内検札がやってきた。切符を差し出しながら、ふと浅見は心にひっかかるものを感じ、検札が終わって車掌が切符を返そうとしているのに気付かなかった。 「お客さん、切符……」  はっと顔を挙げて、浅見は車掌に訊いた。 「この線はいつもこの辺りで検札をやるのですか」 「いつもという訳ではないですが、なるべくやるようにしていますよ」  何か文句でもあるのか、というような顔を車掌はした。 「そうですか、どうも……」  浅見は礼を言い、いま浮かんだ疑惑の正体を見究めようと、思考の中に没頭したが、それが形を成さぬ内に列車は終着広島駅の喧騒に包まれていた。  広島のタクシーは相変わらず柄が悪く、横座りのような恰好の運転手が「どこ?」と語尾を上げて訊いた。それでも浅見が「県警本部へ頼む」と言うと、背筋をシャンと伸ばして安全運転を始めたのは、軽装の浅見を刑事とでも錯覚したのに違いない。  県警本部は広島城と原爆ドームの中間のようなところにある。一帯は官庁街で隣の県庁の堂々たる風格に較べ、コンクリート打ち放しの県警ビルはかなり見劣りがした。車を降りて、浅見がビルの中へ入ってゆくと制服の巡査がさっと寄ってきて「どちらへお越しですか」と言った。巡査の背後には守衛所のようなブロックが仕切られていて、数人の係官が居り、中に警部の襟章も見えた。 「本部長の榊原さんにお目に掛かりたいのですが」 「本部長に、ですか?」  係官は驚いて、浅見を見た。くだけた服装を上から下へ値踏みするように眺める。 「お約束ですか」 「いえ、約束はしておりません」 「それではちょっと無理ですな、スケジュールが詰まっておりますから」 「しかし、緊急の用件なのです」 「いや、皆さんそうおっしゃるのですよ」 「それでは名前だけでも通じていただけませんか、東京の浅見が来た、とそうおっしゃっていただけば必ず会ってくれるはずですから」 「しかしですねえ……」 「もしあなたの一存で門前払いを食わせたことが分かれば、後で問題になるかもしれませんよ」 「脅しですか」  係官はよほどの硬骨らしく、かえって気色ばんだ。浅見も負けていない。 「あなたでは話にならない、あそこにいる警部さん、ちょっと呼んでください」 「勝手なことを……」  二人が揉《も》み合う恰好になったので、近くにいる警官が飛んできた。奥の警部も駆け寄った。受付の係官から事情を聞くと、 「どういうご用件か知らんが、いきなり来て会わせろでは困るのですよ。ともかくお引き取りください。これ以上手を焼かせると公務執行妨害ということになりかねませんよ」  威丈高《いたけだか》に言った。 「分かりました、では、警部さんおひとりにだけ、ちょっとお話させてください」  警部はしぶしぶ、警戒しながら近付いた。その耳許で浅見がひと言囁くと、信じられんという顔になって、 「では一応お名前だけはお通ししますが、本部長が会われるかどうかは分かりませんよ」 「それで結構です」  警部は奥の電話を使って連絡を取っていたが、すぐに飛んできた。 「お会いになるそうです、自分がご案内しましょう」  言うなり、先に立ってエレベーターへ向かって歩きだした。残された警官たちは、悪い夢を見ているような顔を見交わした。  榊原本部長は来客中だったが、浅見の顔を見ると客を放って、嬉しそうに手を差しのべた。四十七歳、引き緊まった体型で、制服姿がよく似合いそうだ。 「やっぱり光彦君か、兄さんの方なら、こういう訪問の仕方はせんと思ったよ、ははは」 「すみません、不躾《ぶしつけ》で」 「いや、不躾はお互い様さ。どうだ、優等生の兄貴は相変わらず奥方の尻に敷かれておるのかね」 「ええ、ときどきはカツを入れに来ていただかないと、息苦しくてやりきれません」 「ははは、そうだろうな。ところで、今日はなんだい」 「じつは緊急にお願いしたいことが……、しかしご来客中ですね」 「うん、なんだ、難しい話か」 「ええ、少し長くなります」 「そうか、それじゃな、隣の応接で少し待っとってくれ。そのくらいの時間はあるんだろう」 「ええ、待たせていただきます」  十分ほど待つあいだ、制服の婦警がコーヒーを運んできてくれた。  榊原は「帰った帰った」と子供のようにはしゃぎながら、現われた。 「どうしたんだい、突然」 「じつは、一昨日から三次に来ております」 「三次?……、三次に何かあるのかな」 「ええ、殺人事件が二つ、三つ……」 「ん? ああ、いま捜査本部が置かれているが」 「その事件を調べています」 「調べている、というと、まさか兄さんの言い付けではあるまい」 「もちろん、兄には内証です」 「すると、用件はその事件と関係しているのだね」 「そうです、じつは……」  浅見はぐいと、膝《ひざ》を進めた。 「どうなっているのか、さっぱり分かりませんよ」  浅見の顔を見るなり、野上は嬉しそうな声をあげた。 「停職を言い渡されて帰ってきたら、また呼び出しがかかりましてね、今度は、停職は間違いで、休暇だと言うのです。警察手帳も返してくれました」 「よかったですねえ、僕も堵《ほ》っとしましたよ」 「しかしねえ、上の方も案外いいかげんなものですねえ」 「まあいいじゃありませんか、何はともあれ無事だったのだし、むしろ自由に行動できるのですから、われわれにとっては願ってもないことです」 「そうなのですよ、それにしても、一か月の休暇などという処分は聞いたことがないのだけれど……」 「おそらく、目的は野上さんを捜査本部から外すことにあるのでしょう」 「たぶんそうなのでしょうな、僕もよくよく嫌われたものだ」 「それはそれとして、今後の捜査は何から手をつけたらいいのでしょう」 「そうですね、まず……」  言いかけて、野上は苦笑した。 「いや、浅見さん、この際はっきりしておきましょうや。僕は専門家として恥ずかしいが、捜査能力、とくに推理力ではあなたに遠く及びません。ですからね、これから先、捜査方針はすべて浅見さんが立てたものに従うということにしたいのです」 「しかし、そんな……」 「いや、そうさせてください。その代わり、脚《あし》と腕力の方は任せてもらいますよ」  野上は屈託なく笑った。決して自己卑下をしているわけでなく、この浅見という青年の底知れぬ智謀に心服しきっているのだ。  浅見はじっと野上をみつめ、 「感謝します」  深く、頭を下げた。その瞬間、二人のあいだにみずみずしい緊張感を伴った、熱い想いが通い合った。それは、とうの昔にこの世から消えてしまったはずの、古風で清冽《せいれつ》でときにやるせないような、あの�友情�と呼ぶに相応《ふさわ》しいものであった。  第六章 第二の男     1  三次署内の捜査本部は、高校教師・池田謙二の�自殺�という新しい事態について、二つの殺人事件との関連づけに腐心していた。  正法寺美也子と富永隆夫の死に池田が関与しているのかどうかを判断する有力な材料は何ひとつない。強いて言えば、池田が自殺したという事実がそのひとつの証拠と見られるという程度のことである。その場合でも池田が殺人の実行者でないことは明らかだ。では殺人を何者かに委託したり、教唆を行なったのか——。しかし池田の周囲の誰《だれ》に訊《き》いてもそんなことはありえないという答えしか返って来ない。 「あの先生は歴史の勉強が生活のすべてのような人で、人に恨まれたり、他人を恨んだりといった世俗のことにはまったく無縁のような方でした」というのは、高校の教頭の話である。丸丸、額面どおりではないとしても、真面目《まじめ》な�学究の徒�というイメージは調査結果全体からも動かせないものであった。�勉強の虫�という意味と、顔付きや眼鏡などの印象から「ケムンパス」というマンガの毛虫の名を与えられたことも、単なるニックネームの中に幾分の尊敬が込められていると言えなくもない。  しかし、小心で人付き合いの悪い人物であったことも確かなようだ。同僚とも打ち解けた話をせず、酒を飲みに行くなどということもなかった。勿論《もちろん》、ガールフレンドや恋人などは存在しない。要するに交友関係といったものは一切、浮かんでこないのだ。  真面目一方で、小心で、友だちのいない池田が、いったい�殺人�という大それた仕事を誰に対して教唆できるのか?——。  一時は色めき立った捜査本部の空気が、時を経るに従って、風船玉のように急速にしぼんでいった。 「結局のところ、池田は事件そのものには関係がなかったのではないか」という意見が、捜査会議の大勢を支配しはじめた。池田が野上に話したとおり、確かに、殺された二人は池田に連絡を入れ、会いに来たのかもしれないが、しかしそのことと殺人事件とは実は別の次元のことであって、ひょっとすると、美也子と富永の事件も無関係なのではないか、とまで後退した意見を言う者も現われた。  そういう混乱の頂点にいる桐山警部の表情は苦悩の色を隠せなかった。事件当初に見られたような精彩は影を潜め、捜査員に指示を与える口調にも力感が失われていた。ことに野上巡査部長に対する処分が一日の内に撤回されて以来、不機嫌さを露骨に示すようになり、精神的にかなり参っている様子が明らかに見受けられた。 (無理もない——)  大友署長は若い警部に同情を禁じ得ない。初めて扱う殺人事件が、かくも複雑怪奇な難事件の様相を呈してきては、エリートコースを順調に歩んできた桐山にとってはいささか荷が勝ち過ぎる。いや桐山にかぎらず、どんなベテランにしたところで、やることは桐山と五十歩百歩、むしろ桐山の指揮ぶりの方が優秀なのかもしれない。現に捜査本部長である大友でさえ、これまでのところ捜査の進め方に容喙《ようかい》する必要を感じたことはなかったほどなのだ。  一方で、大友は野上の動向も気になっていた。野上に対する処分が一転したことには、桐山と同様以上に驚いた。しかも一か月の休暇——それも有給で——などというのは、いまだかつて聞いたことがない。これでは処分どころか、�賞与�に等しいではないか。県警幹部にそれとなく事情を訊いてみると、どうも震源は本部長周辺らしいということだ。県警本部長自らが動いた感触もある。何かよほどの超ウルトラCが行なわれでもしないかぎり、一度下された決定がこんなに簡単にひっくり返るはずがないから、その説には信憑《しんびよう》性があった。何はともあれ、桐山の顔も立て、野上には恩情を示した今回の裁定は、なかなかの�大岡裁き�というものかもしれない、と思ったりもした。  それにしても、一か月の�休暇�を野上がどのように過ごすかは、大友ばかりでなく、署の連中全員の、多少|羨望《せんぼう》の籠《こ》もった関心事ではあった。  その休暇第一日目、野上は密かに、石川刑事を自宅に呼んでいる。石川にとって未知の男である浅見も同席していた。それぞれの紹介を簡単に済ますと、野上は言った。 「池田氏の�自殺事件�の方は調べは進んどるんかね」  石川は浅見をチラッと見て、逡巡《しゆんじゆん》した。 「ああ、この人なら聴かれてもいいんだ、マスコミとは関係ないしね、責任は僕が持つ」 「それなら」と、石川は捜査状況を話した。しかし、浅見を警戒する気分が働いているのか、歯切れの悪い感じがする。 「池田氏の交友関係だが、リストアップはできたのかな」  野上の方から具体的な質問を発した。 「いや、それがですね、池田という人には友人らしい友人がまったくいないのですよ」 「しかし、教師仲間はいるだろう」 「ところが先生同士の付き合いも通り一遍のもので、日常は下宿と学校の間を往復するだけ、暇さえあれば机に向かっていたそうです。この夏休みだって、郷里《くに》へ帰るわけでもなく、ずっと下宿に籠もりっきりだったくらいだから、よほど人付き合いが悪い人間だったのでしょう」 「なるほど、そう言えばそうだが、昔の友人関係はどうなんじゃろ」 「それも一応、調べましたよ。池田氏は三次《ここ》へ来る前は尾道の高校に六年ばかりいたんです。ところが、向こうでも同じなんですね」 「その、もっと前は……」  野上が問題の核心に探りを入れようとした時、浅見がそれを抑え込むように言った。 「池田氏の郷里はどちらなのですか」 「静岡県です」  石川はメモを見て、「静岡県|榛原《はいばら》郡|金谷《かなや》町——」と住所を教えた。 「出身大学は?」 「大阪のK大、ですが……」  素人がなぜそんなことを訊くのか——というような顔を、石川はしてから、 「野上さんの前ですけど、池田という人は結局、二つの殺人事件とは関係なさそうだというのが、捜査本部の考え方になってきていますよ」 「そんな、ばかな……」 「しかしですね、もし池田氏が事件の共犯者だとすれば、犯人はごく親しい人物ということになるでしょう、しかも地元の人間でね。ところがそんな者は一人もいないのですからねえ」 「それじゃ、第一の殺人と第二の殺人の関係はどうなるんだ」 「それなんですよ、庄原署の捜査本部を引き払って、三次署の方へ合流させた手前、いまさら元に戻すわけにもいかず、桐山主任は相当に悩んでおられるようですよ。思えば、池田氏もとんだ罪つくりな自殺をしてくれたもんです。事件をますます複雑にしてしまいましたからねえ」  石川は何気なく言っているが、野上はいやな気がした。池田の自殺で捜査に�混乱�をもたらしたのは野上に他ならないのだ。  仕事の予定があるからと、石川はあまり長居せずに帰って行った。どことなく、パートナーとして動いていた時と違う|そっけ《ヽヽヽ》なさを、野上は感じた。 「彼は県警から来ている刑事《デカ》なんです」  自分に対しても言い聞かせるように、野上は言った。 「なるほど、どうもそんな感じがしました。これからはあまり付き合わない方がいいでしょう」 「どういう意味ですか?」  野上は驚いて、訊いた。 「いや、つまり、捜査本部を刺激しない方がいいということです。あちらさんの面子《メンツ》もあるでしょうからね。こっちはこっちで捜査を進めましょう」  浅見の飛躍した言い方が、野上にはよく呑《の》み込めない。 「石川君と接触することが、捜査本部を刺激することになりますか」 「たぶん。野上さんに勝手に動き回られるのを快しとしない人もいるでしょうからね。ことに県警組は面白くないでしょう」 「それは確かにそうかもしれませんが、しかし……」  野上はその時、組織と浅見の間に立っている自分の不安定さに思い至った。畢竟《ひつきよう》、自分は警察組織の一員であるという自覚が、妙に重苦しくのしかかってきた。  将来、どこかで、この好漢・浅見と袂《たもと》を分かたなければならない事態が起きる予感があった。 「さてと……」  浅見は気分を換えるように煙草《たばこ》を出し、野上に奨め、自分も喫《の》んだ。 「やはり捜査本部は学生時代に遡《さかのぼ》って交友関係を調べる気はなさそうですね。もっとも、八年前の研究旅行の一件を知らなければ、誰だってそんな発想は湧《わ》かないでしょうけど」 「しかし、先刻《さつき》石川君も言ってましたが、犯人は地元の人間で、現在でも親密にしている者、という設定は、まんざら否定できないようにも思えます」 「いや、僕はそうは思いませんよ。敵は相当用心深いですから、当時の痕跡《こんせき》を止《とど》めないために、完全に交友関係を絶っていると考えられます」 「しかし、現実に電話で連絡を取り合っているというのは?」 「それは勿論《もちろん》、互いに所在地は確かめ合っていたでしょうよ。それはいわば相互の安全保障のようなものかもしれない。それに、万一の場合——つまり今回のような緊急事態が持ち上がった場合に備える必要があったでしょうしね、しかし、相手の名前や住所、電話番号を控えておくなどということもしなかったに違いありません」 「それでは、共犯者の身元の割り出しはどうやって……」 「まず、K大の同窓生——とくに歴史を専攻していて、現在は広島県か、場合によっては岡山県西部、または島根県南部に住んでいる者を探すことでしょう」  翌朝、浅見はホテルを引き払い、野上と共に大阪へ向かった。  K大の事務局で訊くと、池田謙二の名はすぐに分かった。昭和四十×年度卒業で専攻は文学部史学科、卒論のテーマは『後鳥羽法皇遷幸伝説の歴史的社会的意義に関する考察』となっている。野上と浅見は目くばせを交わした。(やはり——)という想いが通じ合う。 「ああ、思い出しましたよ、この学生は優秀な子でして、卒論の評価もゼミの中で最高点だったのです」  案内役の職員はしきりに頷《うなず》いた。 「教授に研究室に残るよう奨められたのに、広島県かどこかの高校の教師になったと聞きましたが、いま、どうしてますかなあ」 「死にましたよ」  野上は冷たく言った。 「死んだ……」  かなり年輩の職員は、驚いて目を見開いた。 「亡くなったのですか……」 「ええ、変死です」  自殺とは言わなかった。職員は言葉も出ない。 「ところで、同じゼミを受講していた学生で広島か島根の出身者はいませんか」  浅見に促されて職員は慌てて名簿を繰りはじめた。だが、ゼミの仲間に広島県と島根県、及び岡山県西部の高校出身者は一人もいなかった。元来、K大の学生はほとんど近畿一円の出身者によって占められており、まれに、教授の名を慕って遠方から入学してくる者がいる程度なのだそうだ。池田謙二もそのごく少ない内の一人で、中世史では特異な存在として著名な平松義介教授に憧《あこが》れたものらしい。 「その平松先生も、昨年亡くなりました」  職員は急に老け込んだような声で言った。  K大を出て、二人は学生街の喫茶店に入った。大阪は緑の少ない街だが、この辺りには銀杏《いちよう》並木があって、梢《こずえ》の葉はすでに色づきはじめていた。 「手がかりが掴《つか》めませんでしたね」  野上は少し弱気になって、言った。 「まだまだ、これからじゃありませんか」  浅見は意気軒昂《いきけんこう》としている。それが野上には羨《うらやま》しく思えた。自分のように常に警察の存在を背負って動いていた者が、ひとりきりで動かなければならないとなると、からきしだらしがないものだった。その点、浅見は単独行には馴《な》れているのだろう——。 �単独行�ということから、ひとつの連想が生じた。 「浅見さん、池田は八年前の研究旅行の時、単独行だったということは考えられませんかねえ、あの男の孤独癖からすれば、その方がむしろ似合ってますよ。それに仁多の民宿で『二人と一人だったかもしれない』と言ってましたし、他の二人とはたまたまその夜、同宿しただけではないでしょうか」  浅見は腕組みをして、しばらく考えた。 「その可能性もありますが、僕はそうは思いません。なぜかと言うと、池田の性格から推して、暴行に加わったのは仲間に強く誘われたからだと思うのです。ですから少なくとも二人の内の一人とは、以前からの付き合いがあったと考えるべきですし、むしろ三人のグループだったとする方が当たっているのではないでしょうか」 「しかし、可能性は考えられますよね」 「勿論です」 「じゃあ、僕は�後鳥羽法皇の道�を洗ってみますよ。あのルート上の旅館や民宿の八年前の宿泊者名簿に池田やその仲間の名を発見できるかもしれません」 「なるほど、それはいい。では僕の方は静岡県の池田の実家へ行ってみましょう。序《ついで》に一度東京へ戻って出直してきます。諸諸《もろもろ》の補充もしないといけませんしね」  浅見は白い歯を見せて、笑った。その時、野上は浅見の経済的基盤がどういうことになっているのか、はじめて気にかかった。 「こんなこといまさら訊くのは失礼ですが、浅見さんの職業は何なのですか」 「現在は私立探偵、いつもは臑齧《すねかじ》り、その実態は売れない物書き、といったところです」  はぐらかすように笑っている。  翌朝、野上は一番バスで高野へ向かった。郊外へ出てみると、野の花や山の色づきなどから秋の深まりにおどろかされる。  高野町には旅館らしい旅館は二軒だけしかないということであった。そのいずれも食料品店を兼業しているというのが面白い。しかも小さな町のつい目と鼻の先同士なのである。例のカメラ店の斜め向かいの旅館は水産物中心の店を張っていた。看板に「松屋」とある。応対に出たのは若い男で、八年前と聞くとオーバーに驚いてみせた。 「そんな古い宿帳、あるじゃろうか」  しかし、調べてみるとちゃんとあるのだ。八年どころか、昭和二十年代のものまで出てきたと言って呆《あき》れていた。 「なんでこげな古いもん、蔵《しも》うとくのか気が知れんの」  膨大な帳票類の中から、目指す八年前の八月分のファイルを探し当てるまで、かなりの時間を要した。  八年前、台風十一号の被害が出たのは八月二十八日の夜から二十九日の払暁にかけてである。だから二人の女子大生や三人の男が高野に泊まったとすれば、八月二十七日ということになる。  八月二十七日の宿泊者カードは七枚、その内、単独客は二名、二人客が三組、三人客が二組、となっている。この中で年齢から見て学生と思われる者と職業欄に「学生」と記入している者は、二人客の二組と三人客二組であった。   佐藤 薫(21)他一名   松岡妙子(22)他一名   石沢三郎(22)他二名   荒井順子(22)他二名 「この�他何名�という、同宿者の名はまったく分からないのだろうね」  氏名と住所をメモしながら、野上は訊いた。 「分かりまへんな」 「宿泊客はこれで全部なんだろうか」 「そうとも言えませんな、地元の人なんかじゃと、何《な》も書かんと泊まりますで」 「この、佐藤さんと石沢さんの同宿者がどういう人だったか、分からんだろうか」 「さあ、僕はそん頃《ころ》まだ高校へ行ってましたけん」 「当時、帳場をやっておった人はおられんですか」 「それは母ですが、去年亡くなりました。しかし、生きとっても無理と違いますか」  松屋を辞去してもう一軒の方を訪ねた。こっちの方は酒類が商売の中心らしい、店の右端が奥へ抜ける通路になっていて、その入口にペンキを塗り替えたばかりの「山崎屋」という看板があった。薄暗い通路を抜けてゆくと食堂のような場所にぶつかった。テーブルが四つあり、そのひとつに気むずかしい顔をした親父がいて闖入《ちんにゆう》者を睨《にら》んだ。 「ちょっとお邪魔します」  野上が手帳を示すと、親父はますます苦い顔になった。「八年前の宿帳」と言うと、さらに不快を表わした。 「おい、春子、ちょっと来てんか」  左手の座敷の奥へ呼びかけると、「はい」と声がして、若い女が現われた。少し細身で目鼻立ちに可憐《かれん》な感じを受ける。 「昭和四十×年八月の宿泊名簿、持ってきてんか。古い物やけ、なければないでええが」  親父はいやみを言っている。よほど警察が嫌いらしい、と野上は思った。 「いい娘さんですねえ」  手持ち無沙汰《ぶさた》に、褒め言葉を言うと、とたん、親父は相好を崩した。 「あれは、息子の嫁じゃがな」  それから、おかしいほど愛想がよくなった。客ではないからと断わるのを二階の座敷に招じ上げ、自分でジュースを運んできた。  山崎屋では宿泊者名簿は大学ノートに書き写され、きちんと整理されていた。 「これは代々、嫁のやる仕事でしてな」  創業は昭和初期だという。戦時中は砂鉄の精錬などで軍関係の人夫などが入り、一時期、たいへんな賑《にぎ》わいだった、というようなことを聞かされながら、野上の視線は開かれたノートの上の一点に釘付《くぎづ》けになった。   浅見祐子(21)他一名、東京都北区西ケ原—— 「あった……」  当然、ある程度予想はしていたが、やはり感慨無量だ。 「ありましたかの」  親父と嫁は野上の手元を覗《のぞ》き込んだ。 「ええ、ありました」 「その人、何をしんさったですか」 「この浅見さんという人は、こちらへ泊まった翌日、仁多町で土砂崩れに遭《お》うて亡くなったのですよ」 「へえーっ……」 「それから、もう一人の方も、この八月の頭に三次で殺されたのです」 「えっ、そしたら、三次駅で殺された人ですかいの」  なんちゅうことを、と顔を見合わせた。 「しかし、じつは今回お邪魔したのはこの人たちのことではないのです」  野上は冷静にたちかえって、ふたたびノートを注目した。宿泊客は七組、二十一名。その内学生と見られるものは五組、十四名であった。   浅見祐子(21)他一名   石井 昇(22)他一名   木藤孝一(22)他二名   古田昌子(22)他三名   市原敏治(23)他二名  ここにも池田謙二の名はない。おそらく池田の性格から推して、代表して記名することなど考えられないから、かりに宿泊していたとしても同行者の中にいるのだろう。しかも当夜、高野町に泊まったという保証は何もないのだ。まったく雲を掴むような話だった。 「この人たちのこと、何か記憶に残っているようなことはないじゃろねえ」 「そりゃあ無理ですなあ、なんせ八年前のことですけんの」  野上はともかく住所氏名を書き写すと、礼を言って立ち上がった。この調子で庄原、三良坂、吉舎と、旅館めぐりをやることを考えて、めまいがした。 「そうでしたか、あの殺されはった人がウチのお客さんでしたか……」  親父はすっかり元気を喪って、挨拶《あいさつ》も忘れる有様だ。 「ついこのあいだも、お客さんだった人が自殺しやはって、嫌《いや》な気持でしたがの……」 「そういう話というのは続くものですな」  野上は慰めを言いながら、靴を履いた。ぼんやり考え込んだような親父の後ろで、可愛い嫁女《よめじよ》が頭を下げて見送っていた。  すぐそこがバスの終点で、時刻表を見るとまだ五十分ばかり時間がある。野上は所在なく、その辺をブラブラ歩いてみた。ふと気が付くと、民家や小川の石垣に使われている積み石が一風変わっている。まるで宇宙から降ってきた隕石《いんせき》のように、なんとも言えないグロテスクな色と形状なのである。石にも人間の顔と同じ美醜があるなら、これは醜の最たるものに違いない。 「タタラのご研究をされとってですか」  ふいに、背後から声がかかった。ふり向くと、チョビ髭《ひげ》を生やした老人が立っている。 「近頃はそういう人が多うなって。NHKのドラマのせいじゃろうかの」 「この石がタタラの何かなのですか」 「まあ簡単に言うたら鉱滓《こうし》——つまり炉から出たカスのようなものですの。この辺を掘ればなんぼでも出よる。じゃけん、タタラの研究材料には事欠かんよって、三次や庄原の高校生も年中押しかけてきよりますんじゃ」  瞬間——野上はそのタタラ石で脳天をドヤされたようなショックを受けた。 「ちょっと失礼」  老人に背を向け、走り出した。  山崎屋の親父はまだ食堂のテーブルにいて、飛び込んできた野上に驚き、腰を浮かせた。 「あの、先刻《さつき》の話の自殺したお客さんだけど……」  野上は息を整え、 「池田、池田謙二ちゅう人じゃないですか」 「そうですけどが……」 「やっぱり、そうでしたか……」  天を仰いだ。 「その池田ちゅう人は、いつ頃泊まったのですか」 「いつ頃いうて、去年から今年の春頃まで、何度も見えはりましたな。最近は三次の高校へ転任してきんさったもんで、お泊まりにはならんが、時々は寄って行きよりました」 「ずっと昔、八年前頃にも来ているのですが、そんな話を聞いたことはないですか」 「ああ、そうおっしゃってましたな。八年かどうか知らんですが、学生時分に来たことがあるとか……。そしたら、刑事さんが調べてなさるのはその池田先生でしたかの」 「その八年前に来た時ですが、何人で来たとか、そんなようなことは言っとらんかったですか」 「確か、三人で言うとられましたな」 「三人、三人ですな……」  野上はメモを取り出した。男性三人のグループは二組ある。記名者の名と住所は次のようになっていた。  木藤孝一 大阪府|堺《さかい》市浜寺|諏訪《すわ》ノ森《もり》西一—××、小沢方  市原敏治 広島県|賀茂《かも》郡|河内《こうち》町河内××番地 「このどっちかに池田謙二氏が入っとったのですが、心当たりはありませんか」 「いやあ、ちょっと分かりませんなあ」  両方、直接当たってみるよりテはなさそうだ。野上はまた新しい目標のできたことに満足して、山崎屋を出た。     2  静岡県金谷町は茶の集積地として知られている。金谷町自体も主産地のひとつだが、ここから大井川沿いに北へ、川根、中川根、本川根とつづく各町で有数の良質茶が生産され、それがすべて金谷町に集まってくる。  池田謙二の生家はこの町の古い茶園のひとつで、先祖は徳川家の幕臣だったといわれる。起伏に富んだ緑一色の茶畠《ちやばたけ》の中に建つ、大きな鬼瓦《おにがわら》をかざした館《やかた》のような二階家が、そういう過去を連想させる。  浅見光彦が訪れた時、この広い建物の中には池田謙二の母親とお手伝いの若い女の二人きりしかいなかった。それだけに、突然の浅見の来訪はいくぶんの警戒をもって迎えられたようだ。 「三次でお世話になった者です」  浅見は嘘《うそ》をついた。 「池田先生には歴史のご研究をいろいろお聴かせいただきました。これからそのご研究を集大成されるものと期待しておりましたが、じつに残念です」  自分には詐欺師の素質が備わっているのではないかと、浅見自身思うほど、母を感動させた。 「ほんとうに、あの子は歴史の研究だけがすべての、まじめで気の弱い子でした。どうしてあんなことになってしまいましたのか、いまだに信じられません」  ご焼香を、と申し出ると喜んで仏間へ案内してくれた。新しい位牌《いはい》と並んで、小さな写真立ての中で池田の神経質そうな目がこちらを窺《うかが》っていた。 「いまでもわれわれ仲間は、池田先生のような優秀な方が、なぜ三次のような辺鄙《へんぴ》なところに来てくれたのか、不思議でならないのです」 「それは正直なことを申しますと、私も広島へ行くのは反対したのでございますよ。でもあの子は研究のこととなりますと、矢も楯《たて》もたまらなくなるようなところがありまして、大阪の大学へ行く時も高校の先生方まで反対なさって、東京の国立大学を受けても大丈夫だからとおっしゃってくださるのを、何がなんでもK大のなんとかおっしゃる教授がいいと言い張ったようなことでして……」 「なるほど、しかし池田先生のそういう一途《いちず》なところがわれわれを魅きつけたのです」 「そうおっしゃっていただければ、せめてもの慰めでございます」 「ところで、K大時代には池田先生はやはりお独りで大阪に下宿されていたのですか」 「ええ下宿住まいでした。それでも大学の頃は夏休みには帰って参りましたし、人様とのお付き合いもしましたのに、卒業して広島へ行ってからは滅多に顔も見せませんし、こちらの幼馴染《おさななじ》みの人たちと会っても、ろくにお話もしないくらい偏屈な子になってしまいまして、研究もいいけれど、あまり過ぎて妙なことにならなければいいと心配しておりました矢先に、こんなことになって……」  母親の話はとめどがなくなり、最後は泪《なみだ》にくれて収拾がつかなくなりそうだった。しかしその中で浅見は、大学の卒業期を境に性格的に池田に大きな変化があったことを読み取った。それが仁多の暴行事件とまったく無関係とは思えない。 「ところで、池田先生の大阪での下宿先がお分かりでしたら教えてください、帰りに立ち寄って、当時の思い出などを聞きたいと思うのです」 「あ、それでしたら、先日お悔やみを頂戴《ちようだい》したのがございます」  母親は仏壇の小抽斗《こひきだし》から葉書を取り出した。大阪府堺市浜寺諏訪ノ森西一—××、小沢ハイツ、小沢正典とある。 「小沢ハイツというと、アパートかマンションのようですが」 「そのようですわね、でも昔はごく普通のしもた屋風の下宿でした。学生さんばかり五、六人いらしたと思います。きっとお建て替えなさったのでしょう」  浅見の眸が光った。 (そうか、下宿仲間の学生だったのかもしれない——) 「それから、三次のお住まいにあった荷物などは、いまどちらにあるのでしょうか」 「それはお骨を持って参る時に、全部こちらへ送りました」 「じつは、われわれの仲間内で、池田先生のご研究をこのまま埋もれさせるのは惜しいという話が持ち上がりまして、ご遺族の方にお差し支えがなければ遺稿集を出版したいと考えておるのですが」 「まあ、謙二の勉強にそんな値打ちがありますのでしょうか」 「勿論です。とくに後鳥羽法皇伝説に関する研究は学界でも注目されているほどです」 「ほんとうですの。でしたらこんなに嬉《うれ》しいことはございません」 「つきましては、池田先生の研究ノートなどを一度拝見させていただけたらと思うのですが」 「はあ、ぜひ見てあげてくださいな。と言いましても、あちらから送ったまま、まだ梱包《こんぽう》も解いてない状態でございますけど」 「それは丁度いい、お差し支えなければ、私が梱包を解き、ついでに整理いたしましょうか」 「そうですか、そうしていただければこちらも助かります。なにしろたいへんな量でございますから」  確かに老母の言ったとおり、梱包の量はかなりのものだ。六畳間の三分の一ほどを、茶箱や段ボール箱が占領していた。このぶんだと下宿住まいの池田は、まるで書物に埋もれたような暮らしぶりだったのだろう。 「この部屋は子供の頃からずっと、謙二が使っておりました。上の子は勉強よりスポーツの方が好きだというような子でしたが、謙二は暇さえあればこの部屋で本を読んでおりました」  老母はしきりに懐旧の想いを愉しんでいるのだが、浅見はそれどころではない。慣れない手付きで細引をほどき、出てくる書籍やノート類をそれらしく分類、整理する。目指しているのは後鳥羽法皇伝説に関するものだけなのだが、対象外だからといって、邪険に扱うわけにいかなかった。茶箱ひとつを空にするのも容易なことではない。えらいことを始めてしまった、という後悔も湧いた。  四つめの荷にとりかかろうとすると、その箱の上に分厚くふくらんだ大判の角封筒が載っていた。宛先《あてさき》がこの家の住所で「池田謙二殿」となっている。千円分の切手が貼《は》ってあった。なぜか、まだ封を開けた様子がない。手に取るとどっしりと重い書籍の感触だ。裏を返したが、差し出し人の名は書かれてなかった。 「これは何でしょう?」  浅見は訊いた。 「ああ、それは広島の方から送られてきたものです。謙二から電話があって、こういうものが届くから、封を切らずに置いておくようにと言っておりましたので、そのままにしてあります」 「開けてみてよろしいでしょうか」 「ええ、もうあの子もおりませんし、どうぞ開けてみてください」  浅見はふと思うことがあって、ハンカチを出すとそれで封筒を包むようにして持ち、用心深く封を切った。封筒は二重になっていて、封はベロの部分をセロテープで貼ってある。徐《おもむろ》に取り出した書物を見て、浅見は息を呑んだ。  少しくすんだグリーンの布表紙の背に、金箔《きんぱく》のすっかり剥《は》げ落ちた文字で『芸備地方風土記の研究』とあった。 「いったい、それは、どういうことでしょうか……」  電話の向こうに野上の驚く顔が目に見えるようで、浅見はつい、にやりとした。 「なぜその本が池田の実家にあったのか、浅見さんには分かりますか」 「ええ、たぶんね。もともと、三次駅の事件のあと、犯人も消えてしまったけれど、同時に|あの本《ヽヽヽ》も消えてしまったわけで、その行方にはずっと関心を持っていましたからね。いつかも話したように、あの分厚い本を忽然《こつぜん》と消してしまうのは、凶器を隠すより厄介な作業だったはずで、何か、こんなような手品を使ったとは思っていたのですが、まったく犯人は頭のいいヤツです。あらかじめ用意してきた封筒に本をつっ込んで、セロテープで封をして、ポストに放り込む。ただし切手は余分に貼る必要がありましたがね」 「すると、犯人自身が送ったと考えていいわけですね」 「もちろんです」 「だとすると、それは重要な証拠物件じゃありませんか」 「分かっております。ちゃんとお袋さんに頼んで借りてきましたよ。指紋にも充分注意を払いました」 「筆跡はどうです」 「わざと下手クソに書いてますから、鑑定は難しいかもしれません」 「消印はどこの局でした」 「広島市の本局のようですね」 「本局?……、日付は?」 「犯行の翌日、八月十日の六時から十二時までの消印です。集配の関係もありますから、おそらく前夜に投函《とうかん》されたものでしょう。犯行の帰路である公算が大です」 「もしそうであれば、犯人は広島市内の人間ということですか」 「それはどうか分かりませんが、とにかく三次から広島まで行ったことは確かですね。途中の駅には降りなかったということです」 「無人駅も関係なかったというわけですか」 「そういうことです。しかしあれは焦点をぼかすための、一種のカムフラージとして、犯人の計算には入っていたのかもしれません」 「なるほど、いやあ、それにしてもたいへんな収穫でしたねえ」 「ところが、本来の目的である研究ノートの発見がまだなのです」 「ああ、そのことならもう必要ありませんよ。高野町の旅館で、池田の一行と妹さんたちが同じ日に泊まっていたらしいことをつきとめましたから」  今度は浅見が驚く番だった。 「そうですか、やはり泊まっていましたか。すると、その日に目を付けておいて、翌日睡眠薬を用意したのでしょう。ことによると、ヤツらは目的を達するために、予定でもないのに仁多に一泊することにしたのかもしれない。それで池田は何人で行動していましたか」 「それがですね、浅見さんが言ったように、三人だったのです。宿帳に池田自身の名は書かれていなかったのですが、旅館の主人が池田をよく知っていて、当夜は三人連れだったと証言してくれました。当夜、三人のグループは二組《ふたくみ》あって、宿帳には代表者の名が書いてあり、片方は広島県賀茂郡河内町、もうひとつは大阪府堺市でした」 「堺?……」  浅見は鋭い声を発した。 「まさか野上さん、それ、堺市浜寺じゃないでしょうねえ」 「いや、浜寺ですよ、どうして知ってるんですか?」 「じゃあ、浜寺諏訪ノ森西一—××、小沢ハイツ」 「驚きましたねえ、ぴったりですよ、もっとも最後は小沢ハイツじゃなく、ただ、小沢方となっていますがね、いったいこれはどういうことなのですか」 「じつはですね、池田が大学時代下宿していたのがそこなんです」 「えっ、じゃあ決まりですよ、こいつだ、木藤孝一、こいつが片方のグループの代表者なんです」 「聞いたことありますか、その名前……」 「いや、ぜんぜん知らん名です」 「よし、それじゃ、僕が帰りに大阪へ寄って調べてみましょう」  電話を切った後も、浅見は気持ちが昂《たか》ぶった。いよいよ核心に迫った——という想いが、しぜん、全身の筋肉を震わせる。 (これが武者震いというヤツか——)  浅見は苦笑した。おそらく今頃は野上も同じ想いに囚われていることだろう。しかし彼の場合には細君という、気を紛らわすには恰好《かつこう》の相手に恵まれている。その点、俺《おれ》は情けない。この昂奮《こうふん》をぶつけようにも、家族の目はきわめて冷淡だ。しばらくぶりのわが息子の帰宅を迎えたのに、お袋も「どこへ行ってたの」のひと言さえも言ってくれないのだから、ずいぶん見放されたものだ——と、天井を仰ぎ見ながら妙に愚痴っぽい考えばかりが浮かんできた。 「光彦、おまえ、広島で榊原に会ったそうだな」  夜遅く帰ってきた兄に挨拶すると、そう言われた。まずい——と思ったが、機嫌が悪いという様子ではなかった。 「ええ、ちょっと表敬訪問しました」 「なんだか知らんが、頼母《たのも》しくなったと言ってたが、これはどういう意味かな」 「さあ、たぶん、額面どおりだと思うけど」 「ばか……」  兄は笑った、めずらしいことだ。十三も歳の開きがあるこの兄には浅見は頭が上がらない。東大法学部を優秀な成績で卒《で》て、上級職試験にパス、たちまちエリートコースに乗った。学生時代の光彦をずっと親代わりに面倒を見てくれ、まあ非の打ちどころのない賢兄なのだが、その分、愚弟としては落差の大きい社会的評価を一身に受けることになる。浅見家は明治以来、高級官僚の家柄である。父も大蔵官僚で局長まで行き、次官の噂《うわさ》さえあったが惜しくも急性肝炎で死んだ。兄の陽一郎は最初から警察畑を志望し、そのとおりになった。「国家を動かすには大蔵か内務だ」というのが父の口癖だった。戦前の内務省は形を変え、その機能の一部は現在の警察庁に受け継がれている。父の遺訓を忠実に遵守したということになる。妻には財閥の大番頭といわれる家系の娘を娶《めと》った。これも父の処世を真似《まね》たものだ。官僚には諸事、誘惑が多い。ハングリーでいては、つい心に隙《すき》が生じないともかぎらない。衣食足りていれば、まずその方面での誘惑には冷淡でいられるということだ。事ほど左様に、究極の目標に向かって計算しプランニングされた人生を歩んでいるのが兄であり、父でもあった。浅見光彦は異端である。学校は私大の、それも文学部を受けた。社会に出るのがいやさに大学院へ進み、博士課程を修了した。一応、人並に新聞社に入り文芸部に勤めてはみたものの、何となく肌が合わず、石の上にも三年と頑張ったあげく、辞めた。爾来《じらい》、広告の文案《コピー》を依頼されたり、穴埋め用の雑文を書いたりの生活が続いている。金にはなるが蓄積されるものは期待できそうにない。しかし、そういう人生が自分には似合いだ、と浅見は満足していた。間違っても兄のようにはなれないし、なりたくもなかった。ただ、折節、母の露骨な差別と蔑視《べつし》に出遭い、柄にもなく寂しい想いを感じるのが悩みと言えば言えなくもないだけだ。 「どうだ、仕事が順調な内に、嫁でももらったら」 「いいのがみつかれば、そうします」 「そうか……」  兄は、ふふ、と笑った。 「おまえが羨しいよ……」  妙に実感の籠もった、吐息のような言葉だった。浅見はふっと、兄に対して優しい気持が湧くのを感じた。     3  堺市浜寺はかつて大阪近郊の海水浴場だったところだ。その名残りが、街のここかしこに立つ松の木に見られる。商家の別宅風のしもた屋の、建物は老朽化し、塀内の庭木は伸び放題というたたずまいも、裏を返せば往時の栄華を偲《しの》ぶよすがでもある。  南海電車を諏訪ノ森駅で降りて五分ほどのそういう街並の一角に小沢ハイツはあった。�ハイツ�と呼ぶにはいささか面映ゆいような三階建のアパートだ。家主の老人夫婦は一階の半分を使って住んでいる。「池田謙二」の名を言うと、すぐに分かった。 「ほんま、お気の毒しましたなあ、気ィの優しい勉強家でしたが……、自殺しやはったそうやけど、何が原因でっしゃろなあ」 「よく憶えておられるようですね」 「下宿の頃でしたからな、朝晩、食事で顔を合わせて、ようお話もしましたし。けど、いまはアパートでっしゃろ、どなたとも挨拶程度のことで、味気|無《の》うなりました」 「池田さんと一緒の頃、下宿していた学生さんで、木藤孝一という人を憶えてますか」 「ええ、憶えてますとも」  夫人の声がすぐに反応した。万事、記憶は夫人の方が確かなようで、亭主は細君の尻馬《しりうま》に乗ってうんうんと頷いているケースが多い。 「体の大きい学生さんでした、確か、広島の人や思いましたけど。池田さんとは正反対みたいな感じの……割に親しくしてはったようでした。一緒に旅行したりして……」  浅見は緊張した。 「その旅行ですが、もう一人、つまり三人で旅行したはずなんですが、その人に心当たりはありませんか」 「いいえ、それやったら、大学のお友だちと違いますやろか」 「木藤さんは、大学はどちらでしたか」 「国立のH大でした」 「ほう、H大……。優秀なんですねえ」 「そりゃあんた、ウチの学生さんは皆、優秀な人ばかりでしたよ」 「広島の住所は分かりますか」 「分かる思います、住所録に控えてありますさかい。そやけど、八年前と変わってはるのやおまへんやろか」  住所録には広島県庄原市——の住所があった。 「すると、八年間、便りはなかったということですか」 「そうですねん、あんなに仲良うしとったのに、近頃の若い人は分かりまへんな。あの池田さんかてそうでしたもの。今度のこともウチのお父さんが新聞見とって、この自殺した人はあの池田さんと違うやろか言やはって、まさか思うとりましたら、静岡のご実家の方から亡くなられはったいうお葉書、頂戴しまして、やっぱりそうやったのかってびっくりしたようなことでした」  明らかに、池田も木藤も、過去との脈絡を絶とうとしている——と浅見は思った。八年前のおぞましい出来事の影から遁《のが》れるために、また新しい犯罪に手を染めなければならない因縁めいた運命の非情さを、木藤孝一もそして第三の未知の人物も、思い知らされたことだろう。  小沢ハイツを辞去するとすぐ、浅見は三次へ電話をかけた。黄色い電話機は百円玉を貪欲《どんよく》に吸い込んだ。 「もしもし、あ、浅見さん、どうでした」  野上は浅見の一報を待ち受けていたらしく、ベルが一つ鳴ったとたん、上ずった声が飛び出した。浅見は小沢ハイツのことを手短に喋《しやべ》り、庄原の木藤の住所を伝えた。 「庄原ですか、つい目と鼻の先ですよ」 「しかしそこに現在もいるかどうか分かりません」 「すぐ調べます、浅見さんが見えるまでには所在をつきとめておきますよ」  昨日からの昂奮が、野上はまだ持続している様子だった。  その夜、三次駅前のビジネスホテルの小さなラウンジバーで、野上と浅見はささやかに乾杯した。お互いの�捜査�の成果を讚《たた》え、大きな前進を祝し合った。木藤孝一の現住所は簡単に判明した。八年前の住所から少し離れた新開地に転居したらしい。 「一応、予備知識を仕入れておきましたが、それによると、木藤は北備工業という自動車部品メーカーの副社長をやっているんです。早い話、現社長の後継ぎですね。若いが、さすがH大の工学部を卒《で》ただけあって、工場の省力化や、新製品の開発など、積極的な経営姿勢で業績を伸ばしているという評判でした」  野上はメモを見ながら解説した。 「去年、現在の住所のところに新居を構え、奥さんと長男とお手伝いで住んでいます。そこは工場の近くで、夜間操業などの際に便利なように、というのが転居の理由だそうですから、二代目にしちゃ、出来がいいということでしょうか」  野上の話から木藤の生活ぶりが見えてくるにつれ、浅見の心にたじろぐものが生じた。 「なんだか、残酷なような気がしますね」 「何が、ですか」  野上は不審そうな目を向けた。 「木藤本人は身から出た錆《さび》といえるが、彼を信じて働いている人たちや家族のことを思うとです」 「ああ、そのことですか」  野上は微笑した。「それは見ないことですよ。ただ真直ぐ、ひたすらに犯罪事実だけを見るようにしないと捜査の鉾先《ほこさき》は鈍ってしまいます。それに浅見さん、まだ木藤が犯人だと決まったわけではないことをお忘れなく」 「なるほど、やはり専門家は違うな、最後のところにくると、僕にはそういう割り切り方ができないのかもしれない」 「なに、最後の仕事は警察に任せればいいのですから。非情と言われようと何と言われようと、そういう非難や憎しみは警察という組織が吸取紙のように引き受けてくれますからね。われわれはただ、正義を行なうのみですよ」  野上はわざと肩肘張《かたひじは》った言い方をしている。それは、ある時点で捜査の主導を警察に戻すことへの伏線でもあった。本来からすれば、木藤という�重要参考人�が浮かび上がった現時点から、捜査活動に一般人である浅見を巻き込んだままであるべきではないのだ。小説やテレビドラマならいざ知らず、現実の犯罪捜査はゲームではない。  とは言うものの、実際問題として、これほど功績のあった浅見に対して、そうそう簡単に戦線離脱を宣告することはしのびない。なんらかの危険な情況が生じるとか、いよいよ逮捕状の執行が行なわれるという時点までは、浅見との帯同を続けなければならないのかもしれない——と野上は考えていた。  備後庄原は三次から八つ目の駅である。庄原市は三次とは逆に国鉄線の南側に市街地が展開している。市の郊外には七塚原高原や桜で有名な上野池など、観光の目玉は数多いが、街そのものはどちらかと言えば地味な、落ち着いた雰囲気の地方都市だ。北備工業の本社は駅前通りと国道183号線が交差する、市の中心部にあった。普段は工場に居ることの多い木藤孝一だが、野上が電話でアポイントメントを取ると、本社を会見場所に指定した。  本社ビルは古い五階建のこぢんまりしたものだが、主屋の両サイドにプレハブながら三階建の事務所兼倉庫が増設され、見るからに活況を感じさせる。  応接室に案内されるとすぐに、一八〇センチを超えそうな巨漢が現われ、それが木藤孝一だった。ワイシャツ、ネクタイの上にジャンパーを羽織っていて、目の大きい精悍《せいかん》な風貌《ふうぼう》と堂堂たる体躯《たいく》とラフな服装から受ける印象は、�副社長�というより�右翼の青年隊長�といったところだ。 「三次署の野上です」  手帳を示して言うと、木藤は太い眉《まゆ》をしかめた。 「三次署?……、地元警察の人かと思ったのですが、三次署の刑事さんが何のご用ですか」 「木藤さんは、池田謙二ちゅう人をご存知ですね」  野上はズバリ、切り込んだ。木藤の表情に明らかな動揺が走るのを、野上も浅見も見逃さなかった。 「池田……、さん、ですか……、ええと、知ってるような気もしますが」 「ご存知のはずなんですがねえ」 「それは、その、幾歳《いくつ》ぐらいの人ですか」 「木藤さんと同年輩ですよ」 「それじゃ、もしかすると、大阪で下宿が同じだった人じゃないでしょうか」 「そうですよ」 「やっぱり……、あの人、謙二さんといいましたか、なにしろ八年も前のことですから」 「最近、お会いになったんじゃないですか」 「いや、ぜんぜん。下宿を引き払ってからは会ってませんよ」 「三次にいたんですがね」 「ほう、そうですか、知りませんでした」  木藤はすでに平静を取り戻したかに見える。 「ほんとうに知らなかったのですか」 「ええ」 「新聞にも出たんですがね」 「新聞? 何かあったのですか」 「三次の高校の先生をやっていて、つい最近、自殺しました」 「自殺?……、池田さんが、ですか?」 「ご存知なかったですか」 「ええ、そう言われてみると、新聞にそんなような記事が出ていたような気がするが、しかしそれが池田さんだったとは知りませんでした。そうですか。あの人、自殺したのですか……」 「いや、自殺と決まったわけでもないんですがね」 「?……」 「他殺の可能性もないわけじゃないんです。たとえば背の高い力の強い男が——そう、あなたみたいな立派な体格の、ですな——背の低い池田氏の後ろからロープを首にかけて、引っ張り上げると、丁度、首吊《くびつ》り自殺のように見せかけることもできるわけでして」  木藤は敵意の籠もった眸《め》をギョロッと向けた。 「あまり程度のいいたとえじゃありませんな」  なかなかの迫力だが、野上は怯《ひる》まない。 「ところで木藤さんは九月二十四日の晩はどちらに居られましたか」 「九月二十四日? どういう意味です。それ」 「つまり池田氏が自殺した日です。いや、変死、と申しあげましょうか」 「アリバイというわけですか、失礼な話だ」 「形式的な手続きのようなものです」 「そんなもの、勝手に調べればいいでしょう」 「ですから、こうして調べに来ました。ご本人であるあなたに訊くのが一番はっきりしていますからね」  木藤は舌打ちをして立ち上がり、黙って室を出て行った。慍《いか》って面会打ち切りかと思ったがそういうわけではなく、手帳を手にして戻ってきた。 「九月二十四日は終日、工場にいましたよ、この前後は新製品プロジェクトの追い込みにかかっていた頃だから、連夜、九時四五分頃まで工場にいたはずです。工場の守衛に訊けばはっきりしますよ」 「工場を出たあとはどうですか」 「どうって、家へ帰りましたよ」 「お宅までどのくらいかかりますか」 「歩いて二、三分というところですか」 「それからどうしました」 「ははは……」  木藤は笑い出した。「どうした、どうしたって訊かれても、こっちはビデオテープじゃないですからね、一か月も前のことをそうはっきり憶えちゃおらんですよ。まあたぶん、風呂《ふろ》に入って寝たのでしょうな」 「それを証明することはできますか」 「証明? そんなものあるわけないでしょう。女房の証言には証拠能力がないはずですしね」 「分かりました、そのことはまあ、いいでしょう。時に木藤さん、あなたは八年前、仲間と三人で夏休み中に旅行しましたね」  木藤は笑いを消し、用心深い顔になった。 「さあ、あったかもしれない。学生の頃はよく旅をしましたから」 「池田謙二さんも一緒だったのですがね」 「ああ、思い出しましたよ、そんなこともありました」 「その時の三人組なんですがね。あなたと池田氏と、それからもう一人は誰でしたか」 「さあ、誰だったかなあ、いや、三人だったかどうかもはっきりしませんねえ」 「三人ですよ。高野町の山崎屋という旅館に宿泊者名簿が残っているし、仁多町の民宿でもそう言っております」 「そうですか、それじゃ三人だったのでしょう。しかしよく憶えていませんよ、池田さんが親しくしていた人じゃないかな」 「憶えていないのではなく、忘れてしまいたいのではありませんか」 「どういう意味です」 「誰だって、いやなことは忘れてしまいたいものです」 「いやなこととは何です、はっきり言ったらどうですか」 「じゃあ言いましょう。あの時、山崎屋と仁多の民宿で一緒になった女子大生の二人組のことは忘れてはいないでしょうねえ」 「さあねえ、旅先ではずいぶん、女子大生に会いましたから、そういちいち憶えちゃいませんよ」 「正法寺美也子という名にも記憶がないというのですか」 「だから、いちいち憶えちゃいないと……」 「しかし、その二人は特別でしょう」 「なぜですか」  その時、それまで沈黙を守っていた浅見が鋭く、言った。 「その二人は、あんたたちに睡眠薬を飲まされ、犯され、土砂崩れの犠牲者になったからだ!」  木藤は顔色を変え、両拳《りようこぶし》がブルブル震えるのが分かった。 「なんだと、あんた、何を根拠に……、無礼な、それでも警察官か!」 「いや、僕は警察官ではない」 「なにっ、じゃあ、何なのだ」 「あんたたちに殺された、浅見祐子の兄ですよ」 「浅見?……、知らん、そんな名は知らない」 「そうでしょう、名前も知らぬような男どもの餌食《えじき》に、妹はされたのだ」 「おい、いいかげんにしろ。刑事さん、これはどういうことだ、警察官でもない人間に、なぜこんなことさせておくんだ、帰りたまえ!」 「分かりました。申し訳ありません」  野上もこの事態には困惑した。もっとも、こういうことになるかもしれない、という予感は多少、あった。畢竟《ひつきよう》、浅見は素人に過ぎないのである。そして妹の事件に対する復讐《ふくしゆう》の念に燃えている。ぬらりくらりと尻尾《しつぽ》を掴ませない相手の態度に、業を煮やさない方がどうかしているかもしれない。 「では今日のところはこれで」  野上は浅見を促して、立った。木藤は肘掛椅子《ひじかけいす》にふんぞり返った姿勢のまま、二人が室を出てゆくのを睨みつけ、挨拶を返すこともしなかった。ドアが閉まると、木藤は立ちあがり、部屋の隅にある電話を把《と》りダイヤルを回しかけた。だが、ふとその手を止め、静かに受話器を置くと、跫音《あしおと》を立てぬように注意しながら歩いて行き、ドアの把手《ノブ》に手をかけるやいなや、さっと引き開けた。  ドアの向こうに浅見が立っていた。 「なんだ貴様……」 「いや、ちょっと忘れ物を取りに戻っただけです」  浅見は木藤の巨躯の脇《わき》を恐れげもなく通り過ぎ、ソファの隅に転がっていたライターを拾い、さりげない微笑を浮かべたまま、悠然と立ち去った。 「畜生……」  木藤はけだものじみた唸《うな》り声を発した。  第七章 襲 撃     1 「ヤツはやはり、電話をかけようとしましたよ、受話器の音が聴こえました。しかし、さすがに用心深い、ライターを|忘れて《ヽヽヽ》おいてよかった」  浅見はニヤニヤ笑いながら、いま出てきた北備工業の建物を見返った。先刻見せた昂奮の色は影もない。 「それはいいですが、浅見さん、ああいうのは困ります。テキはあれで地方の有力者ですからね、慍らせたら何をやらかすか分かりません。腹が立っても堪えて、じっくり尋問しないと……」 「いや、僕は腹なんか立ちませんでしたよ。ああいう応対をするだろうということは予測してましたから」 「しかし、先刻《さつき》は……」 「あれは演技です、そうですか、野上さんまでその気にさせたとすれば、僕の演技力もまんざら捨てたもんじゃない。どうです、あの瞬間の木藤の顔を見ましたか。あの恐怖にひきつった狼狽《ろうばい》ぶりはただごとではない。まさしくヤツは警察用語で言うところの�本ボシ�です。この調子で追い詰めて行けば、早晩動き出し、馬脚を現わしますよ」  唖然《あぜん》とする野上を置いたまま、浅見の長い脚は交差点を渡って行く。  駅前のレストランで早い昼食を摂《と》ることにした。運ばれたカレーをひと匙《さじ》食べて、浅見はふと思い出し、言った。 「先刻、木藤は妙なことを言いましたね」 「何です」 「毎晩、工場に九時四五分までいたと。ずいぶん、中途半端な時間だと思いませんか、何か意味があるに違いない」 「門限か何かと違いますか」 「まさか、大の男が、それも多忙な副社長が門限に縛られるような真似はしないでしょう。それより、一〇時前後に自宅に居なければならない、何かの理由があったのだと思いますよ。たとえば、共犯者からの連絡が入るとか……」 「連絡なら、日中でもいつでもできるのじゃないですか」 「しかし、忙しく動き回っている木藤はなかなか掴まらないんじゃないですか。それに、留守をしていると他の者が電話を受けるわけで、そういうことはあまり望ましくないに違いありません。あるいは、電話をかける方も、その時間が最も都合がいいということかもしれない。日中は周囲に人がいるとか……、待てよ……、そうだ、その連絡というのは、池田を消すことの連絡だったのじゃないですかね。池田が宿直の夜を選び、共犯者自身の都合がいいとなればGOのサインを出す……、ということは、共犯の男は日中、よほど忙しいか、予定の立ちにくい仕事を持っているのかもしれない」 「でも、あの殺しは木藤ひとりでも実行できたでしょう。共犯者の都合待ちなんかしていて、時機を失してはまずかったんじゃありませんか」 「いや、そりゃ一人より二人の方がいいに決まってますよ。一人が池田の注意をひきつけておいて——ということもあるし、それに第一、木藤は車の運転の方はどうなのかな……」 「訊いてみましょう」  野上は立って行って、ピンク電話のダイヤルを回した。 「あ、こちら〇〇自動車販売ですが、つかぬことをうかがいますが、おタクさまの副社長さんは車を運転なさいますか……、え、そうですか、免許をお持ちでない。どうも失礼いたしました」  やはり、と野上は頷いて席に戻った。 「これで条件は揃《そろ》いましたが、しかし犯行を裏付けるものは何もありませんね」 「そんなことはないでしょう、池田との関係ははっきりしたのだし、それに八年前の事件もある……」 「しかし情況証拠ばかりで、決め手に欠けます。木藤が白《しら》を切れば、それまでですよ」 「うーん……」  浅見は腕組みをして考え込んでしまった。 「カレー、冷めますよ」  野上は笑いながら言った。「とにかく腹が減っては戦ができません。飯を食ったら、木藤の自宅を訪ねてみましょう」  しばらくの間、咀嚼《そしやく》することに費やしてから、浅見はふと思いついたように言った。 「あの木藤という男ですがね、あれは富永氏を殺した犯人ではないかもしれません」 「それは、なぜですか」 「前にも言いましたが、富永氏が危険な状況を承知で出掛けて行ったというのは、相手に対する安心感があったと思うのです。そこへゆくと木藤は見るからに危険な感じで、あれでは傍へ近寄るのも遠慮したくなる」 「そう言えばそうですね」 「今度の事件で謎《なぞ》とされていたさまざまなことが解明できた中で、その点だけが腑《ふ》に落ちません。いったい富永氏はなぜノコノコと敵中に出向いていったのか——です。池田に対する恐喝が成功して、金の受け渡しのために出掛けたものとしても、そうあっさりと危険に身を晒《さら》すようなヘマはしないと思うのですがねえ」  浅見はしきりに首を捻《ひね》ったが、思考はそれ以上進まない。そのせいか、カレーライスも半分残した。  木藤の自宅へは駅前からハイヤーに乗った。住所を告げると、運転手は「ああ、北備工業さんの……」と、すぐに諒解《りようかい》した。それも道理、その付近は川沿いの新開地で、北備工業の工場のほかは木藤の邸と、その奥に社宅が三軒、建っているだけという殺風景さだった。  少し離れた場所にハイヤーを待たせて、二人は歩いて行った。木藤の邸は白い壁面の近代的な二階屋で、門の内側は車三台分ほどのコンクリート敷になっており、それをカギ型に囲むように建物がある。道路と建物の間は塀で仕切られていて、塀が途切れるところに勝手口専用の潜り戸があった。二人が門の前で中の様子を窺《うかが》っている時、勝手口からゴミ用のビニール袋を持った中年の女が出てきた。道路脇に置かれてある大きな青いポリ容器の中に袋を落とし込みながら、胡散《うさん》臭い眼をこっちへ向けている。野上は女に近寄って手帳を示した。 「近頃、夜間の盗みが多いもんで巡回調査をしているのですが、お宅は夜は留守になることはないですか」 「いいえ、留守にしたことはありません。皆さんが出掛けても、私は留守番してますから」 「ではあなたはお手伝いさんですか」 「ええ、そうです」 「こちらのご主人は夜遅く帰ることが多いのでしょう」 「はい、でもこの頃はずっと一〇時前には帰られますから」 「夜中に出掛けられるようなことはありませんか」 「たまにはありますが、でも、年に二度か三度と違いますか」 「なるほど、それなら安心ですね。ところでこの前、夜中に出掛けられたのはいつ頃のことでしょうか」 「さあ、いつだったかしら、まだ暑い頃でしたから九月の半ばじゃなかったでしょうか、日記を見れば分かるんですけど」 「えっ……」  野上は目を輝かせた。「それは立派ですねえ、日記をつけているんですか、ひとつその日がいつか、教えてくれませんか、統計上ぜひ知りたいのです」  我ながらひどい出任せだと思ったが、女は賞められて気をよくしたのかいそいそと�統計�に協力してくれた。 「あれは九月の二十四日でした。ずいぶん暑い日だったので、もっと早い頃かと思いましたけれど、確か一一時頃出掛けられました」  野上は息が塞《つま》りそうな気がした。池田謙二が�自殺�を遂げたのは、まさにその九月二十四日だったのである。 「そうですか、やはり日記をつけるということは役に立つものです。いや、どうもありがとう……」  礼を言いながら、野上の眸《め》は猟犬さながらに、女の脇から潜り戸の奥を睨んでいた。勝手口の軒下に平たい木箱があり、その中に細引のような物が覗《のぞ》いている。木箱には捺し文字で黒く『北海産身欠き鰊《にしん》』とあった。 「あの箱は何かに使う予定があるのですか」 「え? ああ、あれですか。いいえ、あれはいずれ捨てるつもりですけれど、中にロープが少し入っているもんで、でもロープも残り少なくなってしまって、もうどうでもいいようなものです」 「もしよければ、頂けませんか、丁度荷造り用の紐《ひも》が欲しかったもんだから」 「構いませんけど、ロープは幾らも残っていませんよ」 「それで結構です、じゃあ早速……」  野上は急いで木箱に駆け寄り、女の気の変わるのを怖れながら運び出した。腰から下がガクガクするほどうろたえているのが、自分でも分かった。浅見は少し離れた位置から一部始終を傍観していて、野上がどんどん歩き出すのに周章《あわ》てて寄り添った。 「そのロープが、例の首吊りの物と同じというわけですか?」 「いや、それはどうか分かりませんが……」  息を弾ませ、足早に歩きながら野上は言った。 「それより、この箱です。鰊と書いてあるでしょう、箱の中を見てください、鱗《うろこ》があちこちに付着しています。問題のロープにもこれと同じような鱗が付いていたのですよ」  野上は文字どおり、逃げるようにハイヤーに乗り込むと、あまりきれいではない木箱を膝《ひざ》に載せ、運転手に「真直ぐ三次までやってくれ」と怒鳴るように命じた。その昂奮はむろん隣の浅見にも伝わっている。情況は一挙に進展した、追い詰めてみると、獲物はあまりにも容易《たやす》く手中に入った。何かが間違っているのではないだろうか、こんなに順調に事が運んでいいのだろうか——という躊躇《ちゆうちよ》の方がむしろ強いくらいだ。  自宅へ帰り着くとすぐ、野上は三次署鑑識主任の下田巡査部長に電話した。 「高校の例の事件で、首吊りに使われたロープ、あれはいま、どこにある?」 「ああ、あれじゃったら、犯罪科学研究所へ送ったで」 「すると、分析の結果は出たのかな」 「出とるんと違うか、こっちからは何も訊いとらんけん、よう分からんが」  下田は呑気《のんき》なことを言っている。署の連中はいったい何をやってるのか——と、野上は苛立《いらだ》った。 「それで、あの事件はどうなったんじゃ」 「なんじゃ、野上《ガミ》さん知らんかったんか、あれはもうとっくに自殺で片が付いとるで」 「それじゃ、あのまま……」  野上は絶句した。自分が主張した二つの事件との関わりは、結局、無視されてしまったということなのか。自分を置いてきぼりにして、捜査は別の道を遥《はる》か先まで突っ走ってしまったのか——。しかし野上はともかくも気を取り直した。 「下田さん、済まんけど、科学研究所へ連絡して訊いてもらいたいことがあるんじゃが」 「何や」 「ひとつは、あのロープと、メーカーや販売ルート、使用目的が同じ別のロープがあった場合、その二つのロープの類似点を立証できるもんかどうかということ」 「ふうん、要するに、別の場所にあったロープが、元はひとつの物だったかどうかちゅうことじゃな」 「そうそう、それともうひとつ、あのロープに付着していた魚の鱗な、あれは何の魚の鱗かということを知りたいんじゃ」 「妙なことを調べるんじゃな。よっしゃ、何やら面白そうじゃけん、訊いてみたるわ」 「それからこの件はちょっと内密に頼みたいんじゃ、僕が余計なことやっとるということはあまり知られたくないもんでな」 「了解、内緒で訊いてみる。もしバレたら、わしが勝手にやったいうことにしとくわ」  電話を切って向き直ると、浅見の物問いたげな眸に出くわした。 「池田の事件は自殺で片付けてしまったそうです」 「莫迦《ばか》莫迦しい……、しかしそんなことだろうと思いましたよ」  浅見はむしろ、さばさばした顔だ。「これでいよいよ、捜査本部は永久に真相を解明できないことがはっきりしました。われわれの手で犯人を追い詰めるしかありません」 「そうは言っても、木藤の容疑が深まったら、いずれは逮捕に踏み切らなければなりませんからねえ、捜査本部が結論を下したものをひっくり返すのはひと苦労なんです」 「いいじゃありませんか、何も捜査本部の力を借りなくったって。木藤は急いで逮捕する必要はありませんよ。むしろ、追い詰めるだけ追い詰めて、動きを見ていた方が面白い。ヤツは早晩、仲間と連絡を取って善後策を講じようとしますよ。いまは電話で事が足りているけれど、不安が募れば直接会って相談したくなるに違いない。幸運は独占したい、不安は分かち合いたい、というのが人間の心理ですからね。その不安づくりは僕がやります。先刻の調子でチクチクやれば、ヤッコさん、ノイローゼになるでしょう。前後の見境もなくなり仲間の所へ出掛けてゆくのが目に見えるようじゃありませんか。その行先にいる第三の人物こそ今度の事件の主犯です。そいつがこの危機を乗り越えようとして、どんな悪あがきを見せるか、お手並拝見といきたいもんです」  野上は苦笑した。 「どうも浅見さんは愉しんでいるみたいですねえ」 「うーん、そう言われると、確かにそういう気持ちのあることも否定できません。僕には職業意識はないですからね。ヤツらを追い詰め、苦しめることでサディスティックな快感を得ているのかもしれない」  浅見はわざと露悪的な言い方をしているのだろうが、野上はやはりそこに、自分と浅見との立場の相違というものを、またしても感じてしまう。  下田からの報告は二日目の午過《ひるす》ぎに入った。ロープの判別の件は、実物同士をつき合わせれば、同一品かどうか見分けがつくらしい、という研究所の見解を伝え、魚の鱗の話に移った。 「あれは犯罪科学研究所の手に負えなくて、県の水産試験場へ持ち込んで調べてもらったそうだ。その結果、あの鱗はニシンのものであるということになった」 「ニシン……」  野上は一瞬、息が塞った。 「鰊ちゅうたんじゃね」 「ああ、それでよかったんか」 「ありがとう、結構でした。詳しいことは後で話をするが、ところで、今日は署長はおられるんか」 「ああ、先刻《さつき》顔を見たで」 「そうか」  野上はもう一度礼を言って、受話器を置いた。その受話器をふたたび耳に当て、浅見のいるホテルをダイヤルした。浅見はレストランで昼食を摂っているところだったが、交換が心得ていて回してくれた。 「研究所の結論が出ました」  野上は手短に下田からの報告を伝えた。 「そうですか、それはよかった。これで木藤をつっつく材料が揃いましたね」 「いや、浅見さん、僕はこれから署へ行くつもりです」 「…………」 「署長にこれまでの経過を話して、木藤を引っ張ろうと思うのです」 「逮捕する、ということですか」 「そうです」 「いかん、そりゃ、だめですよ、そんなことをしたって、ヤツは白状しませんよ。まだ早いです……」 「しかし、条件は揃いましたから」 「待ってくださいよ、ゆっくり相談してからでもいいでしょう。すぐに伺いますから」 「しかし、地検へ行って令状の請求手続きをしなければなりませんし……」 「とにかく待ってください」  激しく受話器を置くと、浅見はハイヤーで駆けつけた。だが、二人の主張は平行線を辿《たど》ったまま噛《か》み合わない。野上は捜査の定石どおり、目の前の容疑者を連行して追及すれば、かならず最後の犯人が浮かび出ると判断しているし、浅見は従来どおり、木藤を泳がせて主犯をいぶり出そうという考えを譲らない。 「木藤が犯行を否認し続けたらどうします。物的証拠があるといっても、完全なものとは言えないでしょう。鰊の鱗が付いたロープなんて、いくらでもありますからね」 「いや、それだけじゃないですよ、お手伝いの日記によってアリバイも崩れているし、訊問で自供に追い込む自信はあります」 「どうかなあ、木藤はしたたかな男ですからねえ、勾留《こうりゆう》期限内に決着が付かない可能性が強いと思いますが」 「いや、警察はそんなに甘くはない」  野上は自分でもびっくりしたほど、傲然と言い放った。案の定、浅見は強く反応した。野上を見る眸に、急に疎遠な色が宿った。 「そうですか、あなたがそこまで言うなら、僕にはそれを妨害する権利はない」  浅見は少し蒼褪《あおざ》めた顔を硬く引き緊めて、帰って行った。その後ろ姿を見送るのももどかしく、野上は三次署へ向かった。  大友署長は野上の話の信憑性をにわかには判断できなかった。なにしろ話のスケールが大き過ぎる。八年前の事故に端を発して、後鳥羽法皇伝説にまつわる因縁咄《いんねんばなし》めいた情況の中でつぎつぎに殺人が行なわれたというのが、もうひとつピンと来ないのだ。木藤孝一犯行説も、それらの前提を充分理解していないと得心がいかない。  もともと、警察官の習性は現場至上主義に馴らされているといっていい。目前にある事象に対して白か黒か、右か左かという判断を下す能力は鋭く磨かれているが、事件全体をトータルでマクロ的視野で展望したり、あるいは構築してみたりする能力に欠ける。大友のようなベテランでも——というより、大友のように叩《たた》き上げの警察人であればあるほど、そういう習性が身についてしまっているからどうしても近視眼的にしか物事を判断できない。  野上の話は見ようによっては、仮説の上に仮説を積み上げたような構成だ。はっきりしているのは最後に聴いた�ニシンのウロコ�という部分だけである。そこだけがいやにくっきりと印象に残った。それが証拠に、しばらく経ってから、大友は「ところで、木藤が池田を殺したとすると、動機は何かね」と訊いている。 (まるで分かっていない——)  野上は失望しながら言った。 「それはですね、おそらく池田が警察の追及に負けて犯行を自供することを懼《おそ》れたためだと思います」 「警察の追及、ということは、つまりきみの追及ということじゃろうが」 「まあ、そうです」 「それがどうもひっかかるんじゃが、それだとまるできみの行為を正当化するための論理のようにも受け取れるんじゃがねえ」 「では、署長は詭弁《きべん》だと言われるのですか」 「いや、そうとは言っとらんよ。しかしそう思う者だっておるに違いない」 「思われても構いません。とにかく一度、木藤を連行して、徹底的に絞め上げたいのです」 「しかし、地検がどう言うかの、令状の請求に同意するかどうか……、とにかく署内の意見を聴いてみるがね」 「署内と言いますと、桐山警部にもお訊きになるのですか」 「そりゃそうじゃろう、彼は主任捜査官じゃけんね、他を措いても同意を求めなければならん人だよ」  大友は桐山の同意しないことを半ば予測して言っている。それは野上にも察しがついた。だからといってどうすることもできず、野上はひとまず三次署を引き揚げた。ところが自宅へ帰り着いて間もなく、追いかけるようにして、森川警部補から電話が入った。 「野上《ガミ》さん、署長がお呼びだ。何や知らんが緊急会議にガミさんを出席させたいらしい」  野上は狐《きつね》につままれた想いで、ともかく、ふたたび署へ出頭し、情勢の急転が人もあろうに桐山警部の意見によると知って、もう一度、意外な想いにとらわれた。 「野上君の推理に敬意を表しますよ」  会議の冒頭、桐山はまずそう言って、野上の功績を率直に讚えた。 「署長さんからのご説明で概略のところは理解できたが、細部《デイテール》についてはなお補足したいこともあり、この際、他の諸君ともども、改めてきみの口から直接、説明を聞きたいと思います」  本心のところは分からないにしても、桐山からそういう言われ方をしたことに対して、野上は少なからず感動した。考えてみると、桐山に関して抱いていた悪感情は多分に誤解や偏見によるものであったのかもしれない。鼻をあかしてやろう——などという考えを持ったこと自体、部下の態度としては不遜《ふそん》の謗《そし》りを受けても仕方がないようなものだ。そう考えれば、これまで野上に対して取られた桐山の仕打ちはむしろ妥当なのであって、その行き掛かりをあっさり撤回した変わり身の早さはさすがエリート警部らしい鋭さであり、度量の広さを物語るものだと思った。  野上は大友に向けて話した内容をさらに正確に、細かく語った。桐山は終始熱心にメモを取り、要所要所では質問を交じえながら、最後まで傾聴の姿勢を崩さなかった。おかげで野上は、並いる捜査員の真ん中でほとんど英雄のような昂ぶりと誇らしさを持ち続けることができた。 「お見事……」  野上の話が終わると同時に、桐山は言った。「あざやかな推理です。非常に複雑な事件をよくそこまで調べたものと感心せざるをえません」 「いえ、自分独りの力ではありませんから」 「もちろん、その浅見さんという協力者がいたにせよ、捜査の主体はあくまでも警察官であるあなたにあるのだから、同じ仲間として、われわれも満足です」 「ありがとうございます」  野上は頭を下げ、泪が出そうになった。 「直ちに令状を申請しましょう。一応、明朝七時を期して任意同行の形で連行することにして、その指揮は野上君に依頼する」  功労者に晴れがましい役目を与えるところなど、花も実もある配慮と言わざるをえない。そうすることによって、桐山株そのものが一段と高くなったことも事実だった。     2  なぜこの風景が出てくるのか分からない。だが、夢の背景はいつも決まってこの風景なのだ。霧が辺りを閉ざし、風は躯《からだ》の中を通り抜けるように冷たい。鈍色《にびいろ》の泥濘が足を捉《とら》えて、全身が重くけだるい。  三人の男が立っている。どの顔にも、憎悪と懐疑と恐怖が貼り着いている。その情景はマクベスが三人の老女の予言を聴く場面を彷彿《ほうふつ》させた。 「俺たちはこの先、まったく関係のない者同士として別れよう」  大柄な男が、分厚い唇を突き出すように、言った。その男が自分自身であることを木藤は知っている。こうして自身を傍観していることで、いま目の前にある情景が夢に過ぎないと、自らを慰めることができる。 「当然だ、無関係な状態でいるかぎり、われわれは相互に安全なのだからね」  均整のとれたプロポーションの、貴公子然とした男が、例によって理屈っぽい口調で言った。 「ほんとうに大丈夫でしょうか」  小柄で貧相な男が、曇った眼鏡を気にしながら、いかにも心配そうに、他の二人の顔色を窺った。 「大丈夫だとも、過去はそういつまでも追ってはこない。われわれはそれぞれの道で約束された未来に向かって進むのみだ」  どこかで発車時刻を告げるベルが鳴っている。三人は同時に背後の霧に向かって後退した。霧が流れ込んで、不安げに渦を巻いた。  木藤は目覚めると同時に傍の受話器を取った。妻が部屋へ駆け込んでくるのが見えた。 「どうした、なぜすぐに出ない」  電話の声は苛立ちを隠さない。 「ちょっとうたた寝をしていた」 「そうか……、すると、その様子ではあまり悪い状況ではなさそうだな」 「うん、いまのところはな」 「例の刑事《デカ》は、あれ以来やってこないか」 「うん」 「もうひとりの男というのは何者だ」 「よく分からん」 「刑事よりもその男の方が不気味だと言っていたな」 「ああ」 「なんだ、傍に誰かいるのか」 「うん」 「しようがないな、この前は俺の方が具合が悪かったし……、どうだ、これから迎えに行くが、出られるか」 「うん、まあ……」 「とにかく一応、対策を講じた方がいいからな。じゃあこれから行くから、一時間後に例の場所で待っていてくれ」  夜が更けるにつれて、急に冷え込んできたようだ。車窓の隙間から流れ込む風は膚を刺すように冷たい。明日は霧になるだろう。  街路灯の下に男が立っていた。寒そうに背をこごめているが、大柄なシルエットだ。  トラックはその姿を確認すると、一〇〇メートル余り手前で静かに停まった。運転の男は助手席の窓から身を乗り出し、腕を伸ばして荷台の脇に少し頭をのぞかせている丸太ン棒を車体と直角の方向に引っ張り出した。どんどん丸太は伸びて約一メートルほども突き出した。男はグイグイ丸太を押して、荷台によく固定されているかどうかを確かめてから、運転席に戻った。  トラックはゆっくり走り出し、次第に加速していった。街路灯の男がチラッとこちらを見て、すぐに興味なさそうに背を向ける。対向車はなかった。速度計《スピードメーター》は六〇キロを示していた。ハンドルを少し左へ切った。  男のシルエットが通り過ぎた瞬間、鈍い不快な音がした。衝撃は想像していたほど大きなものではなかった。乗用車ではこうはいかないに違いない。トラックは一〇〇メートルばかりの橋を渡りきって左折した。川堤の道を少し行ったところで停車し、荷台の丸太を川に投げ捨てて、何事もなかったように走り去った。  霧の濃い朝であった。地元では三次市を「霧の町」などと称《よ》び、観光のうたい文句にもしている。西城、馬洗、可愛という三つの川が市の北側で合流し江川《ごうかわ》となって日本海へ向かう。大気の冷えた朝にはこれらの川からいっせいに霧が湧き立ち、三次盆地に垂れこめるのだ。 (いやな霧だな——)  野上は不吉な予感がした。せっかく見えかけた燭光が、この霧の中に閉ざされてしまいそうな不安であった。  パトカーには野上を指揮官とする四人の刑事が乗っている。おっつけ、捜索令状が取れしだい、別働隊が出発するはずだ。  三次インターで中国自動車道に入り、ひとつ目の庄原インターで下りる。そこから庄原市内を東へ抜け左折する。一帯は新市街地域で、工場とそれに付随する住宅がわずかに建つだけの閑散とした風景である。芸備線の踏切を越え、まもなく西城川の橋にかかる手前のところで左へ、細い私道に折れた。正面に工場の建物が見え、その手前左側に白壁にオレンジ色の洋風瓦を葺《ふ》いた豪邸が建つ。そこが木藤孝一の家だ。  刑事たちはカーラジオで七時の時報を聴いてから、パトカーを降りた。  インターフォンで「警察です」と告げると、主婦らしい女が玄関から飛び出してきて、門扉を開けた。背後に先日のお手伝いの女が顔を覗かせている。 「木藤孝一さんはおいでですか」 「あの、主人に何かあったのでしょうか」  女は逆に、不安げな眸《め》で問いかけた。 「いや……、というと、ご主人はいまお留守なのですか」 「ええ、昨夜《ゆうべ》遅く出たきり、帰ってきませんの」 「昨夜?……、どちらへ行かれたのですか」 「それが分かりませんの。どこからか電話がありまして、十一時頃、ちょっと出掛けてくると言って出たものですから……、でも、それじゃあ、何かあったわけではないのですね」  ようやく、堵《ほ》っとした様子を見せた。 「あなたは木藤さんの奥さんですね」 「はい」 「お名前は」 「友江です、友だちの友に、江戸の江」 「じつは、ご主人に緊急にお尋ねしたいことがありましてね、居所を知りたいのだが、お心当たりはありませんか」 「さあ、いつもでしたら泊まるような時には電話をしてくれるはずなのですが、こんなことは初めてなもので……」 「出掛けられる時の様子を聞かせてくれませんか」 「はあ、よく分かりませんが、ちょっと心配そうな感じでした」 「服装は?」 「もう寝《やす》むところでしたが、また普段着に着替えて行きました」 「電話の相手が誰か、分かりませんか」 「さあ、電話には最初から主人が出ましたから」 「話の内容は聴かなかったのですか」 「ええ、ただ、短い受け答えばかりで、『そうか』とか『分かった』とかいうような……」 「そんなふうに、突然出掛けられるようなことは、時々あるのですか」 「いいえ、滅多にありません」  逃げたか——と、野上は思った。まさかという気もするが、今朝の手配のことがどこからか洩れたような、あまりにもタイムリーな消え方だ。  捜査員たちはいったんパトカーに戻り、本署に連絡を取った。 「なに、留守だと?」  桐山警部の不審そうな声が、感度のよくないトーキーから飛び出した。野上の事情説明を聴き了《お》えると、即座に「怪しいぞ」と言った。 「緊急手配の必要があるかもしれない。とにかく木藤の立ち寄りそうな場所を訊き出しておいてくれ、僕もすぐ行くから」  ふたたび野上が木藤家に入ろうとした時、けたたましいクラクションの音が聞こえた。橋の方向に眼をやると、乗用車が停まっていて、男がひとり、窓から手をつっこんでクラクションを鳴らしながら、こっちに向けて手を振っている。 「なんだ、エンストでもしたのかな」  男はパトカーの連中が気がついたと見て、しきりに川の中を指さしている。どうもただごととは思えぬ仕草だ。 「行ってみよう」  刑事たちはいっせいに走りだした。  川堤の斜面を転がり落ちたような姿勢でカーディガン姿の男が死んでいた。 「あそこを走ってきて、発見したのです」  乗用車の男は橋の中程を指さした。  死体は首の骨が折れているらしく、異常な角度で頭部が肩にくっついていた。 「車にはねられたようだな」  野上は刑事たちの先頭に立って堤を下りて行き、男の顔を覗き込んだ。 「木藤だ!……」  悲鳴のような声になった。両方の眼球は半ば飛び出し、顔全体がひしゃげたように無残な形相と化してはいたが、ほとんど直感的に野上は死者が木藤であることを悟った。  凄惨《せいさん》な死にざまであった。鼻、口、耳と、開口部のすべてから流れ出た血が枯草をどす黒く染めている。恐怖と無念さで、野上はワナワナと震えた。 「これが木藤ですか」  他の刑事たちも唖然《あぜん》として死体を見下ろしていたが、いつまでも手をこまねいてそうしているわけにもいかず、その内の一人が所轄の庄原署へ連絡を取った。野上は完全に放心状態に陥っていて、そういう部下たちの動きにさえ気付かない。なぜかその時、彼の脳裡《のうり》を浅見の顔が幾度も幾度も掠《かす》め過ぎた。  まもなく庄原署から二台のパトカーと遺体運搬用のワゴン車が駆けつけた。直ちに実況検分が開始され、三次署の面々はとりあえず傍観することになった。ひととおり状況を把握し終えた頃、木藤夫人が連れてこられた。堤の上から死体を見下ろした途端、夫人は失神し、パトカーで近くの病院へ運ばれる騒ぎになった。夫人に代わってお手伝いの女性が堤下に降り、死体の主が木藤孝一であることを確認した。  実況検分が進むにつれ、単なる交通事故にしては、情況があまりにも不自然であることが分かってきた。まず死体の外傷だが、地上に叩きつけられた際の擦過傷や打撲痕を別にすると、第一次の打撃はただ一個所、頸部《けいぶ》に与えられている。丁度、太さ一五センチ程度のバット——そういうものがあればだが——を横なぐりに振って頸部を殴打したような状況が想定される。もっとも衝撃の強さもスピードも生易しいものでないことは、�破壊�の状態からも明らかだ。頸骨はバラバラに離れ、筋肉組織も千切れ、頭部は、まるで詰め物の抜けてしまったぬいぐるみ人形の首のような具合に、皮膚と伸びきった筋だけで胴体と繋《つな》がっているような有様だ。車体のどこがぶつかったにしても、もし車輛《しやりよう》の形状が通常の許可条件による正規の型式のものであれば、このような打撃を与えることは絶対にありえない。何か違法な構造を加えた車か、それとも荷積み方法に、ハミ出しなどの欠陥があったとしか考えられない。  さらにふしぎなのは被害者のはね飛ばされた位置と角度だ。川堤上の幅三メートルのアスファルト道路には、明らかに被害者がはね飛ばされ、叩きつけられ、バウンドした痕跡が残っている。死体のあった位置とその痕跡を結んで、最初に被害者が立っていたと思われる位置を想定すると、それは川堤の道路を挟んだ反対側で本道の路肩にあるガードレールの外側——つまり�安全地帯�ということになる。それにもかかわらず、ガードレールには損傷らしいものはまったくないのだ。ということは、かりに積荷の木材などがハミ出していたとすると、少なくとも一メートル程度もボディから真横に突き出していたことになり、その状態で走ってきたとすれば、この地点へ達するまでの間に、曲がり角にある電柱などに接触していないはずがない。 「こりゃ、クサいな」  庄原署員も三次署員も、その点で意見が一致した。木藤孝一は明らかに�消された�のである。  まもなく現場に到着した桐山警部は事態の重大さに深刻な表情を見せながらも、茫然自失《ぼうぜんじしつ》状態の野上以下を督励して木藤家の家宅捜索にとり掛かった。自ら白手袋をはめてテキパキと作業の先頭に立つ桐山と、ぼんやりと手を休めがちな野上とは好対照だった。  野上は依然、浅見のことが頭から離れずにいた。半分|喧嘩《けんか》別れのようなことになった相手に、無性に会いたかった。ひょっとすると浅見はこうなることを予測していたのではないか、とさえ思えてきた。なろうことなら、いますぐこの場から浅見のいるホテルへ飛んで行きたい。だが、戦線離脱は望むべくもないし、ひとたび自分の主張によって捜査陣を動かした以上、一応の決着が付くまでは捜査本部の意向に沿って行動するほかはなかった。浅見はそうなることも見透し、危惧《きぐ》していたのではないかとも思えるのだった。  木藤家の家宅捜索からは何の収穫も得られなかった。出動した総勢三十名を超す捜査員は、それを数倍上回る野次馬が見守る中を、報道陣につきまとわれながら引き揚げて行った。  野上の前には木藤孝一の死という厳然たる事実が、冷たい壁のように行く手を阻止して横たわっていた。  第八章 檻《わ》 穽《な》     1  三次駅前のビジネスホテルから浅見光彦が�消えた�のを野上が知ったのは、木藤の事件から二日目の午後のことである。この日の朝、野上は桐山に呼ばれた。木藤の�交通事故死�に関する基礎調査が完了し、事件以後ずっと張りつめていた悲愴《ひそう》感の内にも、堵《ほ》っとした気分が流れ込んだ頃合いを見計らったような�お呼び�だった。 「きみも大変だったろう」  開口一番、桐山は野上を犒《ねぎら》った。「いま一歩のところまで追い詰めながら、敵に先を越された、きみの無念さはよく分かるよ。しかし、今度の事件によってきみの推理の正しさが立証されたことになり、同時に第三の人物の存在が確認されたわけだ。しかもその人物こそ、今回の一連の殺人事件の首魁《アタマ》であることも間違いない。それが何者であるにせよ、これだけの連続殺人を犯している以上、そのどこかにその人物の関与した痕跡が残されていないはずがない。これからも気分を新たにして頑張ってくれるよう、お願いするよ」  そう言って、桐山は立ち上がり、テーブル越しに手を差しのべ、握手を求めた。野上は感激してその手を握り返した。色白で一見|華奢《きやしや》に思える桐山の拳《こぶし》に、しっかりした手応えがあった。 「ところできみの捜査に協力してくれた浅見さんという人も、同じ意味で敬服に値する人物だと思う。今後もなお協力してもらうかどうかは別として、一度会ってみたいのだが、どうだろうか」 「は、それは自分としても望むところです」 「そうか、それじゃ会議のあと、早速手配してください」  捜査会議は、木藤孝一の遺体に対する司法解剖の結果と、現場に遺されたタイヤ痕などから犯行の情況を推定した鑑識班の説明に終始した。それによると、犯行はトラックなどの大型車に直径一五センチ程度の丸太を装着し、時速約六〇キロ前後と見られるスピードで被害者を薙《な》ぎ払ったものと推定された。そこには明らかに殺意が感じられ、計画的犯行であることは動かしがたい。事件直前にかかってきた電話に対する被害者の受け答えからすると、犯人は被害者と面識があることはもちろん、かなり親しい間柄であると考えられた。  捜査はまず、犯行に使われたトラック等の車輛の洗い出しと、被害者の交友関係に重点を置いて展開することになり、捜査員は会議終了後、直ちに行動を開始した。  時計は正午を回ろうとしていた。野上は場合によっては食事を奢《おご》るつもりで、浅見に電話をかけた。 「浅見様は、一昨日、お発ちになりました」  ホテルのフロント係は事務的な口調で、言った。野上はうろたえた。 「お発ちになったって、東京へ帰られたのかね」 「さあ、どちらへ行かれたかはお訊きいたしませんでしたが」 「僕は野上という者だが、何か伝言のようなものはないかね」 「いいえ、お預かりしておりません」  やはり浅見は慍っていたのだ——と野上は思った。慍って当然だ、当初�二人だけの捜査�をあれほど誓い合ったことを思えば、野上の変節は責められるべきかもしれない。しかもその結果がかくも惨憺《さんたん》たる事態に繋がったとあっては弁明の余地もない。  野上は重い気持ちを励ますようにして、東京の浅見家へダイヤルした。 「光彦様はご旅行中です」  若い方のお手伝いの、稚《おさな》い声が答えた。 「ご旅行というと、広島の方からまだ帰られていないのですか?」 「広島かどこか分かりませんが……」 「でも、とにかく一週間ほどはご旅行中なんですね」 「はい、そうです」  すると浅見はまだ広島のどこかにいるのだろうか——。それとも、帰路、どこかに立ち寄っているところなのだろうか——。  野上の報告を聴いた桐山は「おかしいな……」と浮かぬ顔をした。 「その浅見という人、身元はしっかりしているんだろうねえ」 「はあ、それは……、大丈夫です」  警察庁幹部の弟——とは、しかし野上は言わなかった。 「なぜ居なくなったんだろうねえ、大事件が起きた直後だというのに……」  探るような鋭い眸が、野上の目を覗き込んだ。野上はギクッとした。 (まさか、浅見が——)  とんでもない発想が頭の中を横切ったのを見て、自分が発狂したのではないか、と腹立たしかった。そういう野上の動揺を見抜いたように、 「なるべく早く、浅見さんの所在をつきとめるようにしてくれませんか」  桐山はねちっこく念を押した。その時から野上は莫迦げた妄想にとり憑かれることになった。木藤孝一殺害の犯人が浅見である可能性がまったくないとは言い切れない。単純に復讐のためかもしれないし、あるいは真相を究明するつもりが、はずみでああいう悲劇になったとも考えられる。捜査陣に対するいやがらせと取れないこともないか——と妄想は際限なく広がりそうだった。 「俺はもう、刑事《デカ》を辞めたくなったよ」  野上は家へ帰って、智子に述懐した。こんな泣き事めいた科白《せりふ》を洩らすのは初めてのことだ。友情すら踏みにじるような根性が、心底|疎《うと》ましく思えてならなかった。「人を見たら泥棒と思う」刑事稼業が、かくも人間の性格を歪《ゆが》め、蝕《むしば》むということが空恐ろしくもあった。  浅見の消息が杳《よう》として掴めぬまま、数日が経過した。事件捜査の方も同様に難航していた。わずかに収穫といえば、犯行に使われたと思われるトラックが発見されたことだ。トラックは三次市内の土木業者所有のもので、いつも空地を駐車場代わりに放置してあった。古いし汚れているしで、盗まれる気遣いはないと安心し切っていたのが盗まれ、事件のあった日、馬洗川沿いの道路に乗り捨てられてあるのが発見された。すぐに戻ったことだし実害も大してなかったから警察にも届けなかったのを、捜査員のひとりがその噂を聞き込んで、ようやく�凶器�をつきとめることができた。問題の丸太は発見できなかったが、丸太を縛ったと見られる縄や�激突�を物語る凹みが荷台の一部に残っていたこと、それに、かなり摩耗したタイヤの紋様が道路上のそれと一致したために、そのトラックが犯行に用いられたものであると確定された。しかし、事件後、日常の作業に乗り回されたせいもあり、指紋など、犯人のものとみられる遺留物はまったく発見されなかった。  十一月八日、この日は智子の誕生日ということで、野上は久びさ、六時前に帰宅した。その頃から降り出した雨が、すき焼の鍋《なべ》をつついている内に本降りになり、トタン屋根をかまびすしく鳴らした。テレビのお笑い番組に興じながら、夫婦水入らず、ワインを酌《く》み交わし、「少し気張ったわ」と智子が言うところの上等の肉に舌鼓を打っていると、束の間ではあっても、殺伐とした事件のことが頭から離れた。 「キャッ!」  突然、智子が叫び、後ろへのけぞった。怖ろしげに見開かれた眸が、野上の肩越しに硝子戸《ガラスど》の外を見ている。野上は振り向き、その途端、背筋が寒くなった。ずぶ濡《ぬ》れの髪を額に垂らした男の顔が、笑いかけていた。 「浅見さん……」  野上は周章《あわ》てて硝子戸を開けた。 「やあ、済みません。玄関で声をおかけしたんですが、雨音で聴こえないらしくて、こちらへ回らせてもらいました」 「そりゃ申し訳ない、とにかく上がってください、びしょ濡れじゃありませんか」  言いながら野上は、どういうわけか泪がこみあげてきそうで、困った。  濡れた衣服を野上の普段着に着替えると、ズボンの裾《すそ》から長い臑《すね》がはみ出した。そういう浅見の格好がおかしいと言って、智子はコロコロとたわいなく笑う。浅見の帰還を自分と同じように喜んでいる妻に、野上は満足した。 「やあ、旨そうですね、丁度いいところへお邪魔したようだ」  浅見は遠慮なくテーブルの前に腰を据え、自分のための食器が用意されるのを待つ構えだ。智子は困った顔をして「いいお肉がなくて、あとはコマ切れみたいなものなんですけど」と言った。 「いや、何でも結構ですよ、どうせ胃袋は気がつきゃしませんから」  おかしなことを、と、また智子は笑いころげた。空腹にワインが効いたらしく、浅見は直《じき》に赧《あか》くなり、見るからに陽気で愉しそうな様子であった。何かよほどいいことがあったらしい、と野上までが浮き立つような気分に浸っていた。 「浅見さん、どこへ消えてたんですか、ずいぶん探しましたよ」 「すみません、黙っていなくなってしまって。正直言うと、あの頃、僕は少しばかり憤慨していたものだから」 「それを言われると辛いのです、浅見さんを裏切った挙句があの始末ですからね、実際、あなたに合わす顔がありませんよ」 「じゃあ、その件についてはお互いさまということにしましょう。それに、あの事件のおかげで、僕も踏ん切りがついたということでもあるのですから」 「と、いうと?……」 「じつは、僕はかなり前からひとつの仮説を持っていたんです。まだぼんやりした状態だったし、それにあまりにも莫迦げたことのようにも思えて、野上さんにも話す気になれなかったのですがね。ほら、何回かお話ししたでしょう、『富永隆夫がなぜ危険な相手に無防備に接触したのか、不思議だ——』と。そこにおそらく事件全体の謎を解くカギがあるという予感があったのです。あれ以来、そのことを確かめ、裏付けを取るために東奔西走しまして、ようやく今日、結論を得ました」 「すると、犯人を割り出すことに成功したというのですか」 「ええ、理論的にはね、まだ確証はありませんが、しかし時間の問題でしょう」  浅見は事もなげに言っているが、野上は愕《おどろ》いた。 「本当ですか、本当に第三の人物、つまり、事件の主犯格の人物が判ったのですか」 「そうですよ」 「誰です、それは」 「それはもう少し待ってください。明日になれば、最後の物的証拠もはっきり裏付けが取れるはずですし、万一、それが間違っていないともかぎりませんから」 「そうですか……」  野上はほうっと、大きく吐息をついた。 「そうそう、浅見さんを探していた理由ですが、実は、桐山警部がぜひ一度、浅見さんにお会いして話を聴きたいというのです」 「桐山警部が?……」  浅見は意外そうな顔をした。 「要するに、ここまで事件を解明できたのは浅見さんの功績によるものだから、今後もよろしくということでしょう。そうだ、事件の全容が解明できたということなら、いっそ僕ひとりにでなく、桐山警部にも話したらどうです。いや、捜査会議の席上で大々的にやった方がいいかもしれません」 「ちょっと待ってくださいよ、まだ不確定要素がありますから……」 「勿論、それが解明されてからでもいいですが、どうでしょう、捜査員を一堂に集めて浅見式捜査術を披露するのは」 「ははは、そんな大袈裟《おおげさ》な……」 「なに遠慮することはありません、みんなも喜びますよ、きっと」 「うーん……」  浅見は難しい顔で考え込んでいたが、やがてニヤッと笑顔を見せた。 「そうですねえ、喜ばれるかどうかははなはだ疑問だけれど、やってみましょう、いや、ぜひそうさせてもらいます。席上、ちょっとした実験もしてみたいですしね」 「実験、というと?……」 「いや、それはその時のお楽しみということにして、ただし、三番目の犯人が判ったということは伏せておいてください。話の内容はこれまでの事件における体験談、その中から専門の捜査員の皆さんが何か手がかりを掴むことができるかもしれない、といった主旨でやらせていただきます」 「しかし、最後には犯人の名を明かしてくれるのでしょうね」 「ええ、たぶん、ね。最も効果的な演出で種明かしをしますよ」  浅見はいたずらっぽい目で野上を見てから、愉快そうに笑った。     2  翌朝、大友署長に県警本部長の榊原から電話が入った。いっこうに進展しない事件捜査にハッパをかけられるものと、名目上の捜査本部長でもある大友は緊張したのだが、榊原はそのことには触れなかった。 「今日か明日、三次署へ浅見という男が現われるはずだが、きみ、聞いているかね」 「はあ、ついいましがた耳にしたところですが、なんでも捜査会議の席上、レクチャーめいたことをやるようなことを言っておるものですから、そういう前例はないことでもありますし、差し止めるようにしようかと検討しておったところでありますが、そうですか、もうお耳に入りましたか、申し訳ありません」  少し狼狽ぎみに、弁明した。 「いや、そうじゃないのだ、差し止める必要はない。むしろ、きみをはじめ三次署の幹部諸君にもぜひ出席してもらいたいと思い、念のために電話したのだよ」 「はあ……」  大友は狐につままれたような気がした。 「あの、本部長は浅見という人を個人的にご存知なのですか」 「ああ、知っている。野上君と言ったかな、例の巡査部長、あれの処分を撤回してもらったのも、実は彼の差し金だ」 「……いったい、その、浅見さんはどういう方なのでしょうか」 「うん、これはきみだけに話すのだから、そのつもりで聞いてもらいたいのだが、警察庁の刑事局長をやっている浅見陽一郎を知っているだろう」 「はい」 「あれは僕のポン友なのだが、その浅見陽一郎の実弟だよ」  大友は唖然として、しばらく返事ができなかった。  捜査会議に浅見が講義《レクチヤー》を行なうことについて、桐山は難色を示した。「そういうつもりで会いたいと言ったわけではない」と、野上の提案を一旦は斥《しりぞ》けたのだが、署長のとりなしがあって、渋々ながら了解した。結局、次の日の午前十時に、手空《てす》きの捜査員と署の幹部を集めて、浅見の�独演会�が実施されることになった。  その連絡を受けると、浅見はまたどこかへ飛んで行ったらしく、夜まで待っても音沙汰がなく、野上を大いにヤキモキさせた。  翌朝定刻、ほぼ満員の会議室に、緊張した顔の浅見が現われた。一昨日、雨に濡れたせいかブレザーが少し型崩れしていて、若々しい容姿とあいまって、いかにも重みに欠ける印象を与える。この男が天才的な捜査をやってのけたとは、にわかに信じがたいので、出席者のあいだには、やや弛緩《しかん》したような空気が漂った。  冒頭、浅見は簡単な自己紹介と、こういう場を設けてくれたことに対する謝意を述べ、すぐに本論に入った。 「三次駅頭における正法寺美也子さん扼殺《やくさつ》に端を発した今回の連続殺人は、実は八年前に島根県仁多町で発生した土砂崩れによる死傷事故にその遠因があることは、すでに皆さんのお聞きおよびのとおりです。その間の経緯について改めて詳細にご説明申し上げたいという気持ちもあるのですが、本日はその部分を割愛し、さらに一歩進めて事件の全容が解明できたということについてご報告したいと考えております」  一種異様などよめきが室内に溢《あふ》れた。その中から堪りかねたように、大友署長が声を発した。 「浅見さん、いまあなたが言われたことは、つまり第三の犯人——主犯と見られる人物が判ったという意味ですかな」 「そう思っていただいて結構です」  先刻を上回るどよめきが起こった。中には批判的な言辞も混じっている。いくらなんでも、本職の集団である捜査本部を差し置いてこんな素人ひとりに事件解決ができるはずがない、ハッタリもほどほどにしろ——という気持ちが大なり小なり、各人の胸にあったに違いない。 「諸君、静かにしたまえ」  大友は立って、周囲を見渡した。「どういう内容にせよ、浅見さんのこれまでの功績を考えれば傾聴に値するものであろうことはこの私が保証する。もしその上で批判すべき点があれば、忌憚《きたん》のないところを述べればいい。ともかく、いまはひととおり話を終わりまで聴くように」  私語は影を潜めた。浅見は大友に軽く頭を下げた。 「さて、一連の事件に対するこれまでの捜査によって、謎とされていた事柄のほとんどは解明されたのですが、いまなお解明しえないものも幾つかあります。その中で特に私は、次の二つの点に重要な意味があると考えました」  浅見はチョークを把《と》って、背後の黒板に向かった。  一、三次駅事件における犯人の行動——出発点と帰着点はどこか。  二、富隆夫氏はなぜ犯人側の誘い出しに応じたか。 「三次駅殺人事件の犯人——�X�と称《よ》ぶことにします——はどこから来て、どこへ行ったかという点は、捜査本部の緻密《ちみつ》な調査によってもなお解明されておりません。わずかに分かっていることは、芸備線広島行列車でやってきて、犯行後ふたたびその列車で立ち去り、終着広島駅で降りたらしい、ということがほぼ確認できているに過ぎないのです。問題である出発点と帰着点は依然として特定されておりません。しかし、その中でも比較的、はっきりしているのは、出発点も帰着点も同一の場所であり、それは�X�の日常生活の場——職場であったろう、ということです」  また否定的なざわめきが湧いた。 「皆さんが疑問を抱かれるのは当然です。私自身、それが決定的な事実であると最初から信じたわけではありません。しかしいろいろな場合を想定した中では、そう考えるのが最も妥当なのです。なぜそうなのか、ということをご説明しましょう。  まず事件の発端を思い返していただくと、八月九日、正法寺美也子さんが池田謙二に会う決心を固めたのは、尾道駅から福山へ向かう列車に乗った以降であることは確かです。もしそれ以前だとすれば、尾道—三次間の直通バスを利用していたはずですからね。さて、列車が福山に到着したのが一一時一九分、それから公衆電話を探し、さらに三次の高校の電話番号を調べ、高校へ電話し、そこで池田の下宿の電話を聞くまで、約十五分はかかるでしょう。実はその作業を私もやってみたのですが、その際の正式タイムは二十一分三十二秒でした。どんなに順調に運んだとしても、十五分を下回ることはなかったと思います。  池田が下宿で電話の取り次ぎを受け、美也子さんの用件を知るまで、さらに五分——、時刻はおよそ一一時四〇分でした。池田はこの思いがけない事態にどう対処すべきか、混乱した頭で考え、�X�への連絡を思い立ち『煙草を買いに行く』と言って下宿を出、最寄りの公衆電話へ走ります。そして遅くとも一一時五〇分までには下宿に戻り、美也子さんの二度目の電話を受けています。なぜなら、美也子さんが乗った府中行列車は一一時五三分福山発だからです。つまり、�X�は一一時四五分頃に�通常いるべき場所�にいたと考えていいでしょう。もしその場所にいなければ池田は連絡が取れなかったことになります。  平日のこの時間、�通常いるべき場所�といえば、当然�職場�ということになります。すなわち�X�は、犯行に赴くため、職場を離れる必要が生じたわけです。この時�X�は二つの点に留意したと思います。ひとつは、いかにさりげなく職場を離れるか——、もうひとつは、いかにさりげなく職場に戻るか——ということです。要するに�X�として最も希《のぞ》ましいあり方は、自分がその時間消えていたことをできるだけ目立たなくすること、だったに違いありません。トータルで見ると、あたかも、|ずっとそこにいたかのごとく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》振舞おうとしたわけです。イギリスの心理学者ヘンリー・メイヤーはその著書『錯覚の論理』の中で、『連続状態にある事象の動きを慢性的に体験しつつある人は、もしその動きの一部が欠落しても無意識|裡《り》に自らその空白部分を補填《ほてん》し、あたかも体験が継続していたかのように思い込む』と述べています。たとえば、サラリーマンが朝タイムレコーダーを押して、夕方同僚と別れの挨拶をすれば、トータルとしては彼は一日中会社に勤務していた、と看做《みな》されるでしょう。しかし実際には途中で仲間と麻雀卓《マージヤンたく》を囲んでいたかもしれないし、恋人とデートしていたかもしれないのです。問題は初めの状態と終わりの状態に�連続性�があるかないかです。錯覚を成立させるためには、とにもかくにもその日の内に職場に戻っていることが絶対条件なのです。  さりげなく去り、さりげなく戻る——。�X�はこの二つの演技を見事にやってのけたはずです。私はそう信じました。出掛ける際も悠揚迫らず、といった態度だったでしょう。池田からの電話を受け、周章《あわ》てふためくこともなく、まるで予定していた所用に赴くように行動したに違いありません」  浅見はここでひと息入れ、ポケットからハンカチを出して額を拭《ぬぐ》った。並み居る捜査員たちは完全に浅見の能弁に魅了され、そんなたわいない行為をさえ、息を詰めるようにして見守っていた。 「さて、これまでの捜査結果をお聴きしたかぎりでは�X�は終着駅広島で下車したことはほとんど確実だということであります。広島には一八時二〇分に到着するわけですが、もし�X�の勤務地が広島市内にあれば、午後七時頃までにはなんとか帰着することが可能です。これならば、職種によってはあまりめずらしいことでもなく、問題にもなりません。それが午後八時、九時ということになると、どのような職種であろうと、若干の違和感が伴ってきて、先に述べたような�連続性�を完成することができなくなります。  ところで、序《ついで》にここで�X�の職業がどういうものであるかについて触れておきましょう。常識的に考えて�X�は内勤のデスクワークにだけ縛られているような職種ではありえません。外交員、セールスマンといった営業畑のサラリーマンか、権限のある管理職、自由業等、比較的、外廻《そとまわ》りの仕事の多い自由のきく職種に就いている者でしょう。もちろん刑事さんもその中に含まれます……」  どっと笑いが湧いた。 「まあ、どういう職種にせよ、自由業を除けばやはり七時頃までに帰着していないと周囲の者の記憶に残ることになるでしょう。そういうわけで、私は犯人�X�がいた場所は広島市内の某所であると仮定していました。これは仮説ではありますが、推論を一歩前進させるためには、重要な役割を果たすことになりました。  ところで、もう一度事件発生前に戻って、�X�の行動を推理してみましょう。�X�は池田からの第一回目の連絡で美也子さんが福山発一一時五三分の列車で三次へやってくると聞き、とりあえず三次駅の跨線橋を待ち合わせ場所として指示しておくよう、命じます。それに美也子さんが応じたという連絡は一一時五〇分頃には入ったはずです。約四時間後には美也子さんは三次駅に現われる。広島から三次までは約二時間、時間的な余裕は充分です。 �X�はさりげない風を装って時刻表を調べ、犯行計画を練りました。どうやって現場へ赴き、どうやって立ち去るか——最も安全な手段を模索していた時、問題の広島行列車の運行時刻が目に留まりました。一六時〇九分三次着、同二二分発——この十三分間の中で跨線橋上が空白になる瞬間を捉える——、まさに通り魔的犯行です。しかも、捜査の結果挙動不審者の存在が浮かんだとしても、その|人物《ヽヽ》は逆方向からやってきた印象を残すことになります。この犯行計画を練り上げるまでに�X�は美也子さんの来訪目的やその結果生じるであろう危険な情況に思いを巡らせ、ついに殺意を固めるに至ったと考えられますから、いよいよ行動を開始するまでには三十分以上の時間が経過したに違いありません。時刻は一二時二〇分を回ったことになります。  さて、芸備線下り列車は広島発一二時四二分の急行�ちどり4号�があります。急げばあるいはそれに間に合ったとしても、�X�はそういう行動は取らなかったでしょう。次発列車は一三時三一分の普通列車ですが、これで充分間に合うのです。�X�はその列車で三次より三つ先の塩町駅まで行きます。やや遅れてホームの反対側車線に広島行列車が入ってきます。この二つの列車は塩町駅を同じ一五時五七分に発車するのです。�X�は何食わぬ顔で下り列車から上り列車へ乗り移った、というのが、私の描いたシナリオでした」  ここで浅見はいたずらっぽく笑った。 「ところで、一見|完璧《かんぺき》そうに見えるこの犯行計画に、一個所だけきわめて危険な問題点のあることにお気付きでしょうか。それは実に莫迦莫迦しいことなのですが、かりに�X�が広島から塩町まで行き、そこで逆行する列車に乗り移って引き返してきたとすると、これは明らかにキセル行為ということになるのです」  あはは……、という失笑がそこここから洩れた。浅見も一緒になって笑いを浮かべた。 「皆さんお笑いになるけれど、�X�にとってはまさに笑い事ではなかったはずです。ひょっとすると、彼にしてみれば、殺人で捕まるよりもキセルで捕まることの方が心配だったのかもしれませんからね」  そう言ったあとで、浅見は時計を見ると、笑顔から急に苦しそうな表情に変わった。 「途中でまことに見苦しいのですが、今朝から腹をこわしておりまして、ちょっと席を外させてください」  眉をしかめ、腹を抑えながら、浅見はアタフタと室を出て行った。それとほとんど入れ替わるようなタイミングで警務課の巡査が入ってきて、桐山警部に電話がかかっていることを伝えた。 「隣の部屋にお繋ぎしておきました」  桐山は礼を言って、部屋を出た。緊張が解けて、思い思いに雑談が交わされ、だらけた空気になりかけた頃になって、不機嫌そのもののような顔をした桐山が戻ってきた。それに反して浅見はサッパリした快適そうな様子で現われすぐに話を始めた。 「えーと、先ほどはキセルの話をしたのでしたね、なぜそんなことを思い付いたかというと、じつは私自身、学生時代にキセルがバレてひどい目に遭った経験があるからなのです」  浅見は愛敬よく、頭を掻いてみせた。 「しかし、周到にして慎重な�X�が完全犯罪を企《たくら》んだ以上、そんな危険を冒す道理はないのです。もし不幸にして車内検札にひっかかったとしても、それを切り抜ける自信が彼にはあったに違いありません。その自信とは何か——ということはひとまず置いて、第二の謎についてお話ししましょう」  大友が不服そうに言った。 「その自信なるものが何か、気になるのだがねえ……」 「分かります、しかし次の第二の謎と一緒に説明した方が判りいいことですから」  浅見はまるで生徒を宥めすかすように、言った。 「さて、第二の謎というのは、七塚原で殺された富永隆夫氏が、なぜあんな風に簡単に敵の手に落ちたかという点です。富永氏は明らかに三次の事件に関して池田を恐喝していたと考えられるわけですが、恐喝者というのは慎重な上にも慎重に行動するはずですし、しかも相手が殺人者を仲間に持っていることを承知していながら、まるで無防備にノコノコと敵中に入って行ったのはそれこそ自殺行為に等しいとしか言いようがありません。この点がじつは、この事件の中で最も頭を悩ませた謎だったと言っていいでしょう。  富永氏のかかる愚行を理解するには、ただひとつの仮説しかありませんでした。つまり富永氏が唯唯諾諾《いいだくだく》として出掛けて行った理由は、相手がよほど信用の置ける人物であったか、あるいは絶対的に従わざるをえない相手であったか、またはその両方であったとしか考えられないのです。いったいそのような相手とは何者か、お分かりになりますか」  浅見の問いかけに捜査員たちは誰も答えられない。浅見は残念そうに首を振った。 「やはりこれは皆さんにとって盲点であったのですね。では申し上げますが、信用が置けて、絶対的に従わざるをえない相手とは、つまり警察官のことです」  一瞬、シーンと静まりかえり、続いて敵意の籠もった私語がヒソヒソと囁かれ、異様な雰囲気が漂った。野上でさえ、まったく予期しなかった浅見の大胆な発言に、自分でも顔色の変わるのが分かるほどだった。  浅見は�聴衆�の反響を充分確かめてから言葉を続けた。 「先ほど、車内検札を切り抜ける自信があったと言った理由も、これでお分かりいただけたと思います。要するに富永氏は現職の警察官の喚《よ》び出しを受け、相手の指定する場所へ向かったに違いありません。勿論《もちろん》、その相手がどのようにして富永氏に接触したかは不明ですが、富永氏に池田を恐喝しているという弱味があったとすれば、周囲の者にも行先を告げずに出掛けた理由も頷けます」 「犯人が官名を詐称したのではないかね」  大友が言った。「現職警官の犯行とは、いくらなんでも穏やかではない」 「いえ、そんなことで簡単に騙《だま》されるほど、富永氏は単純ではありません。それに私の疑惑を決定的なものにしたのは木藤孝一の謀殺事件だったのです」  浅見の眸《め》がこの時はじめて、ギラッと光った。 「木藤は犯人にとってあまりにもタイムリーに殺されました。逮捕寸前、まさに危機一髪の瀬戸際です。警察側の動きを熟知している者の犯行だと、私は確信しました。皆さんがどのように思われようと、私は確信したのです。そしてさらに私は、犯人像を次のように思い描きました。�X�は、年齢二十九歳前後、身長一七〇センチ程度のあまり特徴のないサラリーマンタイプ、大学——それも多分国立——出身者で、将来を嘱望されているようなエリート警察官、と……」  満場の視線がオズオズと、しかし確実に、桐山警部の所在を求めて動いて行った。桐山は完全に白けきった空気の中で、顔色ひとつ変えず�われ関せず�という態度を維持している。大友署長が堪りかねて、少し詰《なじ》るような語調で言った。 「浅見さん、どうもあなたの言うことは、仮説ずくめのような気がするが、無責任な発言であっては困りますぞ」 「承知しております、これだけのことを言うからには、それなりの裏付け調査を行なって参りました。まず、犯人�X�は八年前、池田、木藤と共に夏季旅行をした仲間ですから大学卒の資格を持つ二十九歳前後の警察官であると考えることに、それほど無理はないと思います。そこで、事件当時三次周辺にいたそれらの条件に合う警察官で、八年前、あるいはそれ以前から木藤と接触があった人物を探し求めたのです。その結果、木藤が広島市内の進学校として知られるS高校に在学中、柔道部でひとつ釜《かま》の飯を食った同学年の部員の中にその人物の名を発見しました。その名は桐山道夫、あなたでしたよ、警部」  浅見はむしろ物静かに、呼びかけた。     3  浅見の衝撃的な発言は、大袈裟にいえば、捜査本部全体を震撼《しんかん》させたと言っていいだろう。連続殺人事件を捜査する捜査本部の指揮官《リーダー》である主任捜査官が、じつはその事件の主犯だという指摘は、まさに天と地が入れ替わるような大変事《だいへんじ》である。もし、浅見の解説が最後まで仮説ずくめで終わっていれば、その指摘には説得力がなく、誹謗《ひぼう》・中傷の類《たぐ》いとしか受け取られなかっただろうが、最後に木藤孝一との関連が立証されたことによって、事実としての信憑性を有《も》つことになった。満場、寂《せき》として声なし——という状態が数分、続いた。 「ははは……」  桐山は笑い出した。顔色は悪いが、表情からは屈服の様子は窺うことができない。 「浅見さん、冗談にしては度が過ぎますね。そんな仮説を並べ立てておいて、最後に木藤と私とがかつて関係があったなどと言えば、いかにも私が事件に関与していたかのような印象を与えるではありませんか」 「ええ、そのとおりですよ、だって、事実そうなのでしょう」 「莫迦な、失礼じゃありませんか、名誉|毀損《きそん》も甚だしい」 「しかし、木藤と同じ柔道部に籍を置いたというのは、まぎれもない事実でしょう。それをなぜ伏せておいたのです」 「古いことだからね、忘れていたし、憶えていたとしても、それが同じ人物だとは気付かなかったかもしれない。現実に、私と木藤とはずっと付き合いがなかったことは調べれば分かることでしょう」  浅見は言葉に窮したかに見えた。 「どうですか、何か言いたいことがありますか、探偵さん」  桐山は揶揄《やゆ》するような言い方をした。 「なるほど、まあそのことはいいでしょう。一応、あなたと木藤の過去の繋がりが立証できればそれでいいことなのですから」  浅見はあっさり撤回して、「時に警部さん、先程の電話ですが、あれは誰方《どなた》からのものでした」 「家内ですよ」  桐山は仏頂面で答えた。 「どういうご用件でしたか」 「私的なことです」 「内容をお聴かせ願えませんでしょうか」 「そんなことをする義務はない」 「どうしても?」 「くどい!」  桐山は浅見を正面から睨み据えた。浅見も負けずに睨み返す。すさまじい迫力のあるシーンだったが、先に視線を逸《そ》らしたのは浅見の方だった。浅見は捜査員たちの方へ向き直ると、うって変わった柔らかな口調で語りはじめた。 「この事件のそもそものキッカケとなったのは、緑色の一冊の書物でありました。尾道の譚海堂書店で、正法寺美也子さんが八年前に紛失したこの本を発見しなければ、四つの連続殺人は起きなかったと言ってもいいでしょう。本の名は『芸備地方風土記の研究』といい、後鳥羽法皇伝説を詳細に記述した文献としてはこの本の右に出るものはないということです。ところで、その本はいったいどこへ消えてしまったのでしょう。美也子さんの手から�X�が奪い取ったものとしても、その先はどこへ行ったか、皆さんは不思議に思いませんか。じつは私はこの謎が事件解明のカギであると考えておりましたが、ふとした偶然からその所在を発見したのです。その本はなんと、あの池田謙二の静岡の実家に送られていたのでした」  ざわめきが湧いたが、しかしその事実の持つ意味を正確に理解しえた者はごく少なかった。 「私は野上さんに、この場所でひとつの実験を試みるとお約束しました。それは皆さんにもぜひ立ち会っていただきたいほど興味深い実験であり、また、その方が効果的であるからなのです。先刻、私がトイレへ失礼した時刻のことなのですが、丁度タイミングを合わせて、広島市内のあるお宅に、郵便局員が二人訪れております。このお二人は本職の方で、理由を話して実験に協力していただきました。  さて、二人の郵便局員は、ひとりは郵便物を、もうひとりはカセットテープコーダーを持参して、そのお宅の奥さんがご主人宛に電話をかける様子を録音しました。また同じ頃、奥さんが電話をかけた相手方の電話付近にも、録音中のテープレコーダーが回っていたのです。こういう卑怯《ひきよう》な方法は私自身としてはきわめて不本意だったのですが、事件の真相に迫るためにはこの程度のカラクリはやむをえないと考え、実行に踏み切りました」  浅見は廊下に向かって合図を送った。いつの間に待機していたものか、警務課の巡査がカセットテープコーダーと二本のテープを持って入ってきた。 「これからお聴かせするテープは、その会話を録音したものです。電話の中の会話ですが盗聴装置を使って録音したわけではなく、それぞれの場所で単に録音したに過ぎませんから、違法性はないと考えていいでしょう」  浅見は第一のテープをセットし、スイッチを入れた。女性の声がスピーカーから飛び出した。電話を使って転送してきたものらしく音質はよくないが、はっきりと聴きとれる。 ——あ、あなた、いま郵便局の方が見えて静岡県の金谷へ送った郵便物が宛先人《あてさきにん》不明で戻ってきたって言うんですけれど……。 ——ちょっと待って……、ええと、池田謙二様ってなっています。 ——はい、分りました。けれど、料金も不足しているって言うのよ。 ——だって、そう言うんですもの……。 ——おかしいって、何が? ——どういうこと、それ? もしもし、あら、切れちゃったわ……。 「やめろ! プライバシーの侵害だ」  突然、桐山が叫んだ。先刻までの冷静さは影を潜め、その顔は憎悪に歪んで、醜怪でさえあった。浅見は悲しいような表情を浮かべながら、それでも手の方は休めることなく、テープを取り換えた。今度は生の音声に近い男の声が聴こえてきた。 ——もしもし、桐山ですが。 ——宛先人不明?……、誰あてになっている? ——おかしいな……、まあ、とにかく受け取っておきなさい。 ——そんなはずはない。千円も貼っているんだから。 ——待て、これはおかしいぞ……。 ——その封筒にはこっちの住所は書かなかったんだ!  そのあとは、荒々しく受話器を置く音がした。浅見はスイッチを切った。音声が途絶えると、重苦しい静寂がのしかかってきた。その中に、熱病患者のような不規則な息遣いが聞こえていた。 「そんなものに……」  と桐山は苦しそうに言った。「証拠能力があるわけがない」 「なるほど、法的にはそういうことなのかもしれません。しかし判決の材料にはなるでしょう」  浅見は冷静に言った。「それに、あなたにとって致命的ともいえる物的証拠のあることが、つい先刻、分かったのですよ」 「何だ、それは……」 「あの本を送った封筒から、あなたのものと一致する指紋が検出されたのです」 「ばかな、そんなことは……」 「ありえない、と言いたいのでしょうね。確かにあなたは、ポストへ放り込む前に封筒をハンカチで拭き取ることは忘れなかったでしょう。ところが、それにもかかわらず指紋が検出されたのです。どこからだか分かりますか」  浅見はニコニコ笑った。 「あなたはセロテープを使って封をしましたねえ。勿論、テープの上も入念に拭き取ったことは認めますよ。ところがです。テープの内側に付いていた人差し指の指紋は、実に鮮明に残っていたそうですよ。まさかとお思いかもしれませんが、私も試してみたのですがね、セロテープの裏側に付いた指紋は、いったん紙の上に貼ってしまうと、どんなに上からこすっても絶対消えませんでしたよ」  浅見は語り終えると、相手の反論を待つ姿勢で、じっと桐山の顔を凝視《みつ》めた。  桐山は瞑目《めいもく》し、あらゆる知覚を停止して外界から孤立しようとしているかに見えた。捜査員たちは全員が、瞬《まばた》きひとつせず、口の中をカラカラにして桐山を見ている。 「桐山君、何か言うことはないのかね」  大友署長がようやく口を開いた。桐山は物憂げに瞼《まぶた》を開け、焦点の定まらない眸で声のした方向を眺めた。 「おかしなもんだ……」  含み笑いと一緒に、呟きが洩れた。「あんな本が八年間という時の経過を無意味なものにしてしまうとは……」  それっきり、桐山は二度と口を開かなかった。しばらく沈黙が続いてから、大友は起ち上がって桐山の前に歩み寄った。 「桐山、殺人容疑で緊急逮捕する」  森川警部補と野上部長刑事が、左右から桐山の腕を抱えて、室を出て行った。 「あの晩、稲垣刑事部長から、三次駅殺人事件の捜査指揮を取るよう命令された時、私は運命の皮肉さに慄然《りつぜん》としました」  取り調べの冒頭、桐山はそう述懐している。取り調べには大友署長自らが当たった。桐山は長い沈黙を続けていたが、それは黙秘することが目的ではなく、混乱した感情を鎮め論旨を整理するために費やされたように思えた。一度話し出すと、あとは淡淡と、まるで他人の事件を論評するような醒《さ》めた口調で喋った。それは諦《あきら》めがそうさせるのか、それともエリート警部としての最後の矜持《きようじ》を示そうとしているものなのか、いずれにしても大友の理解を超える落ち着きぶりであった。  八月九日の桐山の行動は総じて、浅見が指摘したとおりだった。池田からの連絡を受けた瞬間、彼の頭にはすでに殺意が閃《ひらめ》いたという。美也子の訪問に旧悪を暴《あば》く目的などはなかったかもしれないではないか、という大友の疑問に、「私は最悪の事態を想定して、最善を尽くしただけです」と答えた。大友は唖然とせざるをえなかった。これが要するに桐山の行動の論理なのであり、それ以降の連続殺人すべてを�正当化�する拠りどころであった。  三次駅で美也子を殺して県警本部に戻った桐山は、部下に命じておいた調査の仕上がりをチェックしながら捜査状況が伝わってくるのを待っていた。その矢先、稲垣刑事部長に呼ばれ事件の担当を命じられたのだから、その驚愕《きようがく》と狼狽は察するに余りある。  だが桐山はそれをすら、逆に自分に与えられた幸運と受け止めた。確かに、事件捜査の全容を把握する上で、これほど望ましいポジションは他にない。しかも、恣意《しい》的に捜査を混迷に陥いれることも可能だ。  桐山はまず、県警の敏腕刑事たちを第一、第二プロジェクトに投入した。広島行列車乗客から犯人を割り出す作業である。それはいかにも捜査の本筋であり、当然すぎる捜査指揮であるかのように思えた。その一方で、美也子の旅行ルートの追跡調査も�遺漏なく�命じている。担当は三次署の部長刑事・野上と、若い石川刑事である。この人選から見るかぎり、桐山警部がこの方面の調査については形式的な意味あいで臨んでいることをうかがわせた。誰もが、野上も含めて、これに重要性を認識することはなかったのである。  だが、桐山の蹉跌《さてつ》はじつに、ここから始まった。野上は桐山が軽視したほど凡庸な�田舎刑事�ではなかったのだ。野上が�緑色の本�の消滅を指摘してきた時、桐山はようやくそのことを悟り、事件の核心に迫る者があるとすれば、それはこの男かもしれない、と予感した。高飛車に野上の着眼を貶《けな》すことで、ひとまず危機の芽を摘んだところへ、思いがけない敵が現われた。富永隆夫である。  富永は最初、単なる好奇心で�緑色の本�の出所をつきとめたものらしい。だが、池田の過度な狼狽ぶりで、彼自身考えてもいなかったであろう�恐喝者�に豹変する。池田は富永の話をろくすっぽ聴かぬ内に「あんた、いくら欲しいんだ」と言ったそうだ。 「そう言われれば、誰だって恐喝者になりますよ」  桐山は取調室で苦笑して見せた。この小心な�仲間�がいるかぎり、気の休まることはない、とその時桐山は思ったという。  富永に対して、桐山は真向から捜査官として臨んだ。「恐喝容疑」をちらつかせると富永は震え上がった。なんとか穏便にと電話の向こうで泣き声を出した。あとは桐山の思いどおりに操ることができた。もっとも一度だけ三次署に電話して、桐山なる人物が実在するかどうか確かめている辺りは、さすがに富永は抜け目がない。偽名を使ってはいたが、そういう電話のあったことを署員に聴いてすぐ、桐山は富永に電話を入れて、叱《しか》り飛ばした。それで一層、富永は桐山を畏怖《いふ》することになった。  会見場所は|富永の希望《ヽヽヽヽヽ》を容れ�人目につかぬ場所�を選んでやった。桐山は車で富永を拾い、七塚原高原へ向かったのである。  こうして第二の危機を乗り切ったものの、予測したとおり、第三の危機が迫ってきた。野上がついに池田謙二の存在をキャッチしたのだ。池田はいったんは桐山の指示どおり、野上の事情聴取を切り抜けたけれど、どこまで追及の手を躱《かわ》しきれるか不安だった。しかも野上はなぜか捜査報告を怠っている。そのことも不気味でならない。いつまでも放置していては池田の線から崩れると桐山は判断した。  池田謀殺には木藤を参加させた。そもそも八年前に女子大生への暴行を企てた張本人は木藤だったのである。第一、第二の殺人は情況や技術的な面で桐山が単独で行なった方が好都合だった。しかし木藤独りをノホホンとさせておくことに桐山は我慢ならなかった。それに、この犯行には木藤の膂力《りよりよく》がものを言う。池田はどうしても�自殺�させなければならなかったのである。  池田の�自殺�は野上を�失脚�させる恰好の材料でもあった。まさに乾坤一擲《けんこんいつてき》の離れ技を桐山は演じ、そして狙《ねら》いどおり事態は推移するかに見えた——。  浅見光彦の出現は完璧なはずの桐山の目論見を根底から覆《くつがえ》した。 「あんな素人に追い詰められるとは思いもよりませんでしたよ」  桐山は憮然《ぶぜん》として、言った。エリートを自認する桐山にとって、あるいは死刑の宣告を受けるよりも、そのことの方が無念だったのかもしれない。 「しかしね桐山、浅見さんは素人とはいえ、もともと由緒ある血筋だからね」  大友は桐山の心中を思いやって、慰めめいたことを言った。「浅見家は代々、エリート官僚の家柄だし、実の兄さんは警察庁の刑事局長をしておられる」 「そうですか……」  桐山は意表を衝かれたように顔を挙げ、大友を見た。その眸《め》に、大友は敗残の将のかすかな満足を見たような気がした。  エピローグ  プラットホームにいるとただ一面の霧の中だが、階段を上がって跨線橋の窓から仰ぐと、時折、霧が薄れて陽光が覗いた。三次名物の川霧はそれほどに低く立ちこめるということなのだ。小高い丘にでも登れば、まるで高山の頂上付近で見る雲海のように濃密な霧が盆地を埋め尽くしているのを眺めることができる。 「この霧が湧くごとに、三次は冬へと向かうのです」  野上は少しやり切れないように、言った。 「いいですねえ、四季を刻む風物詩に恵まれているというのは、都会人にはなんとも羨《うらやま》しいかぎりですよ」 「しかし住んでいる者にとっては、ただうっとうしいばかりの冬の前触れに過ぎません」 「そういえば、後鳥羽法皇の道も、遠来の連中が騒ぐ割に、地元の人びとは存外、冷淡なようですね。後鳥羽まんじゅうなんていう土産品があってもよさそうだけど」  浅見はまじめくさって言った。 「三次人形というのがありますよ、内裏雛《だいりびな》の恰好をした土製の人形ですが、これなんか密かに後鳥羽法皇を象《かたど》ったものかもしれない」 「なるほど、伝説というものは、そんな風にひっそりと慎《つつ》ましく息づいているのでしょうか。一度、そういう慎ましやかなものに触れながら、後鳥羽法皇の道を歩いてみたいと思いますよ。あの池田謙二がそういう史蹟に魅《ひ》かれて、この地に根を下ろそうとした気持ちも理解できそうです」 「考えてみると、彼は可哀相な男でしたね。本性は内気で善良な学者だったのだろうけれど、たった一度の過ちのおかげで身を滅ぼすことになってしまった」 「運命としかいいようがない。正法寺美也子さんが尾道であの本をみつけさえしなければ、八年前の事故の謎も永遠に埋もれたままで終わったのですからね。そうしてみると、この世界には人為の及ばない何かの力が働いていることを信じたくなります」 「浅見さんの妹さんの執念かもしれません」 「あるいは、ですね、いや、もしかすると後鳥羽法皇の怨念《おんねん》かもしれない。僕はほんのしばらくの間だが、この土地に暮らしてみて、ここの人たちが共通して有《も》っている、一種の敬虔《けいけん》な生き方に何度も接したような気がするのです。一見、明るくて素朴なようだけれど、心のどこかに絶えず何かに対する虔《おそ》れを秘めながら、慎ましく生活している。これは僕は、到るところに顔をのぞかせている古墳群や無数の神話、伝説と無縁ではないと思うのです。子供の頃からそういう環境に育ち、この世には犯してはいけない何かが存在していることを膚《はだ》で感じているような気がします。そういう人たちの目から見れば、桐山たちは亡びるべくして亡びたことになるのかもしれません」  霧が動きはじめ、野上はコートの襟を立てた。浅見は冷たい霧が流れ込む窓から北東の空間を眺めた。 「王貫峠はこの方向ですね」 「そうです」  峠の向こうは仁多町か——。美也子の死んだ場所に立ち、妹の終焉《しゆうえん》の地に臨みながら、浅見は二人の霊に祈った。  階段を降りると駅員の新祖が立っていた。 「やあ刑事さん、出張ですか」  寒そうな顔で笑いかけた。 「いや、お客さんの見送りだ」 「そうですか。道理で寂しそうな顔をしとられました」  何気なく言った言葉が、二人を苦笑させた。 「それじゃ、お気をつけて」  新祖は言い置いて、接近してくる急行列車を迎えにホームの先端へ向かって去って行った。その先に続くレールがキラキラと輝きはじめた。どうやら霧は霽《は》れるらしい。 本書はフィクションであり、実在のいかなる団体・個人等ともいっさい関係ありません。(編集部) 角川文庫『後鳥羽伝説殺人事件』昭和60年1月25日初版刊行